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仁木 長政(にっき ながまさ、生没年不詳)は戦国時代の武将。通称、四郎、左京大夫。 『後法成寺関白記』では仁木四郎の名が見られ、伊賀の仁木刑部大輔長頼の子と思われる。 == 概略 == 享禄4年(1531年)、後法成寺関白記に、仁木四郎初来と名前が見える。 天文10年(1541年)、大覺寺義俊を頼り、左京大夫に任ぜられんことを幕府に請う。 永禄6年(1563年)頃には丹波の仁木城にいたとされ、『永禄六年諸役人附』にも丹波守護と記されている。 永禄11年(1568年)、吉田兼右の伊賀下向の際、新城(三田?)の地鎮祈願を依頼していることから、丹波仁木一族が阿波へ移動(1565年頃)したのと同時期に伊賀へ入国したのだろう。 永禄12年(1569年)には滝川一益を通じ、織田信長に下っているが、国人たちはこれには従わず、元亀2年(1571年)に近江から仁木友梅(義視)を国主として入国させている(新津秀三郎文書・伊乱記)。 天正2年(1574年)、高倉神社の再建(棟札による)を最後に資料から名前が消える。 天正8年(1580年)、天正伊賀の乱の前年に、仁木政親が吉田兼見に在京を申し出ていることから、仁木長政の一族は京へ移住したのではないかと思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁木長政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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