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仁田 勇(にった いさむ、1899年10月19日 - 1984年1月16日)は、日本の物理化学者。東京生まれ。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授。1966年文化勲章受章者。正三位勲一等瑞宝章。 ==略歴と業績== ===大学卒業から理研時代=== 1923年3月東京帝国大学理学部化学科を卒業(卒業研究は松原行一教授の指導の下で有機化学を専攻)、直ちに理化学研究所(現在の独立行政法人理研)に入り、西川正治博士の研究室で結晶によるX線回折の研究を始めた。当時はX線回折は純粋に物理学の領域であったが、西川は仁田に有機化合物にX線回折の方法を応用してみることを勧めた。これが後に日本で結晶化学の大きな分野を開く端緒となった。西川はどんな有機化合物が適当かは仁田が自分で決めるように指示した。いまからみれば極めて幼稚なX線解析の方法しかなかった1920年代に、何ができるかについて仁田が悩んだ末に選んだのがヨードホルム(CHI3)の結晶だった。 有機化学(生化学など周辺領域を含む)における最も基本的な概念は炭素の原子価が4価であることである。つまり炭素原子がほかの原子と化学結合するとき4本の手を出し、それによって隣の原子と結ばれて有機化合物の分子ができあがる。この4本の"手"が空間でどの方向を向いているかについては、1874年にオランダの化学者ファント・ホッフが四面体説を提唱した。すなわち炭素原子を正四面体の中心に置いたとき4本の結合は正四面体の4個の頂点の方向に向くというものである。これは光学異性体の存在を説明するために考えられた結論であったが、仮説に過ぎなかったのである。いわば有機化学の全体が、この仮説の上に築かれていたわけである。仁田が取り組んだのは、この正四面体構造の仮説を実験によって証明できないかという問題であった。そのためなるべく簡単な有機化合物で当時のX線回折の技術で取り組めるような物質として選んだのがヨードホルムであった。この物質については三つのヨウ素原子が正三角形の頂点にいることがわかったので、もし炭素と水素の原子がその三角形の中心の上にあれば四面体モデルと合致することがわかったが、炭素原子などの位置を決めるところまでは当時の技術ではできず完全な証明には至らなかった。 そこで次に選んだのは、容易に入手でき、室温で安定なペンタエリスリトールであった。これは炭素原子が中心にあって、4個のCH2OHグループがそれについている。その付き方がファント・ホッフの仮説の通りかどうかを調べようというわけである。この物質については、Mark と Weissenberg が既に同じねらいでX線回折の研究を行い、フアント・ホッフの仮説とはちがう四角錐構造を結論していた。つまり分子はピラミッド形で頂上に炭素原子があり、底辺の正方形の四隅が隣の炭素原子という構造である。不審に思った仁田は、自分でつくった結晶をラウエ法でX線回折の実験をした。その結果Markらの結論は誤っていると判断し、さらに詳しく自分の回折データを検討した結果、四面体構造の対称性も許されることが判り、ファント・ホッフの仮説は否定されていないと結論した。なおこの問題についての最終的な決着は、1937年のもっと完全な回折実験による解析を待たなければならなかったが、1927年に理研の欧文報告に掲載された仁田のこの画期的な論文に対して、Markはそれに反論する論文を発表したが、最終的には仁田の結論が正しいことを認めた。仁田とMarkの長い友人としての交流の始まりであった。 小さな分子だけでなく、タンパク質、核酸(RNA、DNA)、酵素などの生物体を構成する巨大分子の構造、反応、生理活性などの理論と実験が、すべて炭素原子の正四面体原子価を基礎としていることを思えば、仁田の業績の意義はきわめて大きいといわなければならない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁田勇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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