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仁科濫觴記[にしならんしょうき] 仁科濫觴記(にしならんしょうき)は、崇神天皇の時代から弘仁までのおよそ1000年間における、古代の仁科氏の歴史。信濃国(長野県)安曇平の歴史や、地名の起こりに加え、部分的に中央政権の動向にも触れられている。著者は不明で、制作年代も平安時代初期に始まり江戸時代の完成になると考えられている。 == 概要 == 当地方で最も古いと考えられ、かつ信憑性の高い記録〔仁科宗一郎著『安曇の古代 -仁科濫觴記考-』(柳沢書苑、1982年) 9〕。信濃国風土記の一端を伝えるものであった可能性も、考えられている〔仁科宗一郎著・同著 9頁〕。部分的な情報は、仁科氏に代々伝わっていた奈良時代を遡る「御所ノ旧記」なる記録(未発表)が参照されている。「天皇」という記述から後代の加筆が確実であるものの、「成務天皇五年(135年)二月」といった古代の細かな時間範囲の事件にも触れられている。また、大海人皇子(後の天武天皇)に比定されうる「皇極ノ太子」による、白雉4年(653年)以降のこの地方への政治関与の記録など、中央政権の動向の詳細に言及している点もある。 記録の最終の時代である白雉4年から弘仁8年(817年)の記述は、非常に詳細である。しかし、白雉以前の記録はあいまいな点も多く、また成務天皇期よりも後のおよそ500年間の記録は欠けている。 やはりこの地域の記録としても知られる信府統記が、おとぎ話的な要素を多く含み、事件の背景年代もあいまいであるのに対し、あくまでも人間の歴史として時間軸に置いて記述しようとしている態度が一貫しており、また不確実な情報を極力少なくしようとしている点が、記録の信憑性を高めている、と考えられている〔仁科宗一郎著・同著 9-16頁〕。創作童話「龍の子太郎」のモデルとなった民話の一つ泉小太郎伝説〔信府統記〕〔降旗睢(降旗雷淵)『新撰仁科記』(伊藤書店、1904)〕や、八面大王伝説など、松本・安曇平に伝わる伝承の元となった「史実」に触れることができる。また、大町・安曇・穂高・千曲川・仁科三湖・有明山・高瀬川 (長野県)・梓川・姫川・仁科神明宮・穂高神社・若一王子神社などの由来(名前の変遷や成立年が記されているものもある)についても記されている。 記録されている地域の範囲は、仁科(現在の大町市から安曇野市にかけて)の記録が中心となっているが、南は松本市島立から同市梓川地区、北は北安曇郡白馬村、同小谷村を超え、信越国境に及んでいる。また、長岡京や岡本宮にも触れられている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁科濫觴記」の詳細全文を読む
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