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仇 成 ( きゅう せい 1324年 - 1388年 ) は、元末から明初の軍人。含山 ( 現在の安徽省含山県 ) の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。 ==生涯== 朱元璋の軍に従軍して萬戸となった。数々の戦いの功で秦淮翼副元帥となった。 1361年8月、安慶を攻めたが、敵は守りを固めて戦おうとはしなかった。廖永忠、張志雄が水寨を破り、仇成はこの動きに乗じ、陸路から攻撃をかけて、安慶を攻略した。仇成は横海指揮同知として、安慶の守りについた。左君弼が廬州に拠り、朱元璋の武将・羅友賢が池州で叛き、知州・董曾を陥れ、これを殺害した。安慶は敵に囲まれた状況であったが、仇成は軍民を集め、守りを厳重に固めた。陳友諒軍は安慶より東に進もうとしなかった。 1363年7月、鄱陽湖の戦いに参加し、敵軍を涇江口で殲滅し、第一等の功績を上げた。 1366年11月、平江を囲み、仇成は城の西南に配置された。張士誠軍を城の西南で破った。 1370年(洪武3年)、僉大都督府事となり、遼東の守りについた。呉禎は水軍数万を率いて、登州から継続的に軍糧を輸送した。功績がなかったため、永平衛指揮使に降格された。後に復官を果たした。 1379年(洪武12年)1月、沐英、藍玉らと洮州18族の反乱討伐に功を上げた。11月、朱元璋は仇成の今までの功績を思い出し、安慶候に封じ、歳禄2千石を賜った。 1387年(洪武20年)5月、征南副将軍として平容美の蛮族を討った。雲南討伐に参加し、多くの功績を上げて、世券を与えられ、5百石を加えられた。 1388年(洪武21年)7月、病にかかり、亡くなった。皖国公の爵位を贈られ、庄襄と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仇成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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