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今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)。京都見廻組に参加しており、近江屋事件で暗躍したとされている。明治維新後は、自由民権運動を展開した三養社に携わり、榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市初倉地域)の村長を務めた。 == 生涯 == 天保12年10月2日(1841年11月14日)、江戸本郷湯島天神下(現在の東京都文京区湯島)の幕臣の家に生まれる。 嘉永3年(1850年)、10歳で元服して為忠と名乗る。この年より湯島聖堂に出仕、和漢の道や絵画などを学ぶ。安政5年(1858年)、直心影流・榊原鍵吉の門下に入り、20歳で免許皆伝、講武所師範代を拝命した。また、片手打ちという独自の剣法を編み出すが、師より封印される。文久3年(1863年)、柔術の指南を受けた神奈川奉行所取締役・窪田鎮章の配下となり、窪田から扱心流体術を習った。 その後、遊撃隊頭取として京都に赴き、上京後は佐々木只三郎の京都見廻組に参加した。イギリスの「歩兵操練・図解」を翻訳し、江戸幕府の洋式歩兵部隊の編成を古屋佐久左衛門により組織された衝鋒隊の副隊長になり、戊辰戦争においては最後の箱館戦争まで戦い抜いた。明治3年(1870年)、箱館で降伏。囚われの身となっていた際に近江屋事件の糾問を受け、坂本龍馬暗殺に関わったと自供し、裁判により禁固刑となったが、明治5年(1872年)に特赦により釈放された。この釈放には西郷隆盛の口添えがあったともいわれるが、西郷と信郎の関わりを確認出来る史料は見つかっていない。 以降は静岡県榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に帰農し、初倉村の村議及び村長を務める。当初はキリスト教を迫害しており、キリスト教を伝えていた宣教師を暗殺しようとしていた。しかし、横浜の横浜海岸教会でその教義を知り大いに感銘を受けて自らの不覚を愧じ、その信者となり牧師・平岩愃保から洗礼を受ける〔守部喜雅(2010年) 37-38ページ〕。後半生はクリスチャンとして矯風事業に貢献した。また、同じクリスチャンである坂本直が主宰した龍馬の法要にも出席している。 大正5年(1916年)に脳卒中で倒れ、2年間の病床生活の後の大正7年(1918年)に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今井信郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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