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今井正 : ウィキペディア日本語版
今井正[いまい ただし]

今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、日本映画監督
戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠である。東京帝国大学卒業後、東宝の前身J.O.スタヂオに入り、入社2年で監督に昇進。戦後は独立プロ運動の中心人物として数多くの社会派映画を手がけた。『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、『武士道残酷物語』で同映画祭グランプリを受賞、キネマ旬報ベスト・テンでは5本の監督作がベスト・ワンに選出されるなど、賞歴も多く作品の評価は高い。日本映画復興会議初代議長でもある。主な監督作に『青い山脈』『また逢う日まで』『真昼の暗黒』『キクとイサム』など。
== 経歴 ==

===生い立ち===
1912年(明治45年)1月8日東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院に、その住職である父・六助と母・カネの長男として生まれる〔。父は岐阜県の農家の3男で、子供の頃にお寺の小僧に出されて上京し、日露戦争出征を経て、霊泉院の住職になった〔論創社2012、p.11〕。母は近くの香林院の住職の妻の妹で、北里研究所の前身である痘苗製造所に勤めた経験のある人だった〔。生後、今井は中耳炎にかかり、右耳の鼓膜がなくなり聴覚を失っている〔。
渋谷町立臨川小学校を経て、1924年(大正13年)に旧制芝中学校に入学する。この頃から映画を多く観るようになり、本人の回想では新宿武蔵野館で主演の『』などを観たという〔論創社2012、p.14〕。チャップリンの喜劇もほとんど観ており、英文でファンレターを書いて出したこともあった〔。
1929年(昭和4年)、中学を卒業して旧制水戸高校に入学。在学中、マルクス主義に関心を持ち〔キネマ旬報1976、p.53〕、雑誌『戦旗』に感激してからは学内の秘密組織読書会のメンバーとなった〔論創社2012、p.16-17〕。翌年、特高に連行され、1年間の停学処分を受ける〔。1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部美術史科に入学。学内の秘密組織に入り、同年に本富士警察署に検挙される。翌1934年(昭和9年)にまた1年間の停学処分を受け、そのまま中退する〔論創社2012、p.18〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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