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今宮 義透(いまみや よしすく、元禄4年(1691年) - 宝暦3年9月6日(1753年10月2日))は江戸時代の久保田藩家老。佐竹一門今宮家当主。幼名は圭之助。通称は又三郎、大学。諱は光泰、光冬、義透。一般的に今宮大学で知られる。実父は今宮義教(常蓮院)。母は梅津氏。長兄は今宮永教(外記)。夫人は渋江光重(十兵衛)の次女。石川忠兵衛の娘。家格は廻座(宿老)、のちに引渡座。藩主佐竹義峯の元で藩政改革を行う。子女は3男3女。 == 経歴 == 元禄4年(1691年)に当時、藩主佐竹義処の命で久保田城下の自宅に謹慎中であった義教の7子として出生。 正徳元年(1711年)に初出仕するも正徳4年(1714年)に兄に連座して一時退役。 享保元年(1716年)に赦されて再勤し、享保2年(1717年)に兄の家督を相続。同3年(1718年)、藩政改革の必要性を述べた「贈執政之書」を藩に提出し、享保6年(1721年)に家老に就任し、同年200石を賜る。 従来、城下にあった会所を廃止して久保田城中に御用所を設け、出納担当の本方奉行を廃止し財務と出納を勘定奉行に一本化する。また、村境や道を調査して図籍簿を編集する。これらの行政改革により、享保10年(1725年)に兄の代で降格になった家格を復されて引渡座となり、一門の席に列する。 元文2年(1737年)に江戸幕府より寛永通宝銅銭の鋳造の許可を得るのに成功して200石加増される。翌年(1738年)より寛永通宝鋳造を行う。しかし幕命により延享2年(1745年)に鋳造禁止となり、財政再建は頓挫する。 寛延元年(1748年)に檜山給人支配の待遇を与えられたが、同年10月に家老免職となる。宝暦3年9月6日(1753年10月2日)に久保田城下で死去。葬所は禅宗闐信寺。戒名は威則院賢翁諒雄。 なお、義透の廃止した本方奉行はその後復活するが、寛政元年(1789年)に再度廃止となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今宮義透」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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