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今帰仁王子朝典 : ウィキペディア日本語版
今帰仁朝典[なきじん ちょうてん]

今帰仁 朝典(なきじん ちょうてん、生年不詳 - 没年は嘉靖年間(1522年-1566年))は琉球王国第二尚氏王統・第3代尚真王の三男。向氏具志川御殿の元祖。唐名は尚韶威、童名は真武体金。
生年不詳であるが、兄:尚維衡・浦添王子朝満(尚真王の長男)の生年が弘治7年(1494年)で、弟にあたる尚清王(尚真王の五男)の生年が弘治10年(1497年)であることから、1494年から1497年の間に生まれていることが推測される。
向氏具志川御殿における初代の北山監守で、同家七世にあたる向従憲・今帰仁按司朝幸まで代々監守職を世襲し、同家は今帰仁間切(現在の今帰仁村)に居住した。ところで監守職に任命されたのを家譜では「弘治年間(1488年-1505年)」としているが、先の生年の推測からしても、どんなに長じていても数え12歳の幼年で監守職に任命されたことになる。家譜の記述が正しいとすると、監守職就任の当初は、実質的な職務は別の者があたっていたことが窺い知れる。
墓所は那覇市首里の玉陵である。一部書籍などには墓所を山川の玉陵としているものもあるが、それは誤り。家譜上の「西之玉陵」を誤解し、それを「玉陵の西方に位置する山川の玉陵」とする誤謬であるが、「西之玉陵」は「玉陵の西室」という意味である。
== 系譜 ==
尚真王の三男として生まれているが、その母は不詳。また室も不詳となっている。子は二男一女。同家は北山監守職と同様に、代々今帰仁間切の地頭職を継いでいくが、王朝末期に尚育王の三男:尚弼・今帰仁王子朝敷が今帰仁間切の按司地頭となったため、それを機に具志川間切の地頭家となった。
*父:尚真 (第二尚氏王統3代国王)
*妃:名不詳 (号は居仁。父は尚宣威王)
 *兄(長男):尚維衡・浦添王子朝満
*夫人:思戸金按司 (号は華后。謝氏知名親雲上成良の娘)
 *弟(五男):尚清 (第二尚氏4代国王)
*夫人:名不詳 (銘苅子の娘)
 *姉(長女):真鍋樽・佐司笠按司 (尚魏鼎・見里王子朝易に嫁ぐ)
*不詳(妃or夫人orその他)
 *兄(次男):尚朝栄・大里王子
 *弟(四男):尚龍徳・越来王子朝福
 *弟(六男):尚享仁・金武王子
 *弟(七男):尚源道・豊見城王子
*室:名不詳
 *長男:向介昭・今帰仁按司朝殊
 *次男:向介明・南風原按司朝包
 *長女:童名不詳・世寄君按司 (和寿豈・平良親方景平に嫁ぐ)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「今帰仁朝典」の詳細全文を読む



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