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今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9月15日 - 2006年〈平成18年〉5月30日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現・日本映画大学)の創設者。 == 人物 == カンヌ国際映画祭で2度のグランプリを受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹、日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。映画監督の長谷川和彦は正社員として所属した〔長谷川和彦は『神々の深き欲望』で制作進行。(後に長谷川の上司が辞めてしまったので、新入りの長谷川が制作部門の実質のトップで沖縄ロケを取り仕切った。)〕。 性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者として顔をも持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり 、日本映画大学の母体となった。撮影所システムが1970年代に崩壊して、映画会社が人材育成をやめて以降の人材供給の役割を果たしていくことになった〔香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、p.295〕〔田中千世子「映画・書評スペシャル 『教育者・今村昌平』」『キネマ旬報』2011年2月上旬号、pp.158-159〕。 家族は妻と2男1女。長男は脚本家で映画監督の天願大介。次男は今村プロダクション代表取締役の今村竑介(いまむら ひろすけ、1963年3月22日 - )。50年余の映画監督人生の中で、20作品を監督している。妻は1970年代に近所の主婦を集めて『あしたのジョー』『サザエさん』『タイガーマスク』などのアニメの彩色と仕上げを行う下請けの仕事をして、今村が劇映画を撮れなかった10年間の家計を支えた〔今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、pp.175、242〕。 今村昌平作品は重喜劇と言われ、これは今村を象徴する言葉で、もともとは軽喜劇をもじった今村による造語である〔今村、2004年、p.81〕。作風は自然主義リアリズムで、脚本執筆の際には徹底した調査を行った〔「わくわくすることを求め続けて 長谷川和彦インタビュー」『20世紀の記憶 かい人21面相の時代 1976-1988』毎日新聞社、2000年、p.26〕〔香取、2004年、p.180〕〔佐藤忠男『今村昌平の世界 増補版』学陽書房、1997年、p.72〕。『赤い殺意』では宮城県の12家族を調査し〔香取、2004年、p.200〕、『にっぽん昆虫記』は売春婦とその斡旋業者に取材したノートは3冊になり、『エロ事師たちより 人類学入門』のためにブルーフィルム制作者に実際に取材した〔今村、2004年、pp.129-130〕。その調査魔ぶりは『復讐するは我にあり』の映画化の際にも発揮され、原作者の佐木隆三を驚かせた〔佐木隆三「文庫版のためのあとがき」『復讐するは我にあり 改訂新版』文春文庫、2009年、pp.477-478〕。撮影にあたっては基本的にオールロケが原則で、俳優もスタッフもロケ地で長期間の合宿生活をして暮らしながら撮影するスタイルを取っており、俳優の掛け持ち出演も許さなかった〔香取、2004年、p.52〕〔「場欄万丈撮影日記 北村和夫の巻」『「のど自慢」な人びと』「のど自慢」な人びと製作委員会編、文藝春秋、1998年、p.57〕。鬼のイマヘイと言われる妥協のない粘りの演出で、アフレコを嫌って臨場感のある同時録音にこだわった〔香取、2004年、pp.180、455〕〔紅谷愃一『日本映画のサウンドデザイン 感動場面を演出する音声収録と音響処理のテクニック』誠文堂新光社、2011年、pp.43、47〕。 独立プロによる映画製作であり、自分の家を抵当に入れ製作資金捻出しているため、制作費を回収して抵当権を解除するまで3年ほどかかるため、発表ペースは3年に1度となっていた〔今村昌平『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、2001年、p.291〕。倹約家として知られ、フィルムはどんどん使ったが、映画制作費を減らす事の為ならなんでもしたと言われている。おごるのもラーメンくらいだったという〔香取、2004年、pp.283、297〕。不用意に電話を使う事すら許されず、電話代を節約するためハガキでのやり取りを奨励していた。 趣味は麻雀〔今村、2004年、p.242〕。相撲取りクラスの非常に大食いであり〔〔今村昌平『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、2001年、p.218〕、松竹大船撮影所ではどんぶり飯を2杯食べる新人というので評判だった〔村松友視『今平犯科帳 今村昌平とは何者』日本放送出版協会、2003年、p.16〕。しかしその旺盛な食欲が災いして29歳で糖尿病となる〔今村、2004年、p.75〕。糖尿病治療でよくテニスをやってスタッフにもつきあわせていた〔香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、p.258〕。晩年は高齢に加えて糖尿病の影響でエネルギッシュだった今村はめっきり無口になった〔香取、2004年、pp.476、491〕。ヘビースモーカーだったが、禁煙した〔。 今村が松竹から日活へ移籍した後、師匠である川島雄三が同じく日活に移籍、また監督試験で「松竹に落選」した浦山桐郎が鈴木清順監督の計らいで日活入所となった。川島は幕末太陽傳での製作にかかる予算配分を巡って日活と対立し、結局日活を去るが、今村は日活に残り、『にっぽん昆虫記』、『赤い殺意』などの製作を行なう。今村は常に川島を意識して、地方出身で都会志向の川島に対して、東北土着の「基層心理」をベースにした作風(本人の言葉で言えば重喜劇)をこのとき確立させた。のちに今村はこの基層心理を推し進めてドキュメントタッチの作風に変化して行ったが、主人公は常に庶民であり、有名人の故事来歴的作品は一切取り上げなかった。 師匠川島雄三についての追悼録、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』では、川島の生涯を実証的に取り上げ、川島がALSに侵されながらそれを一切他言せず、最後まで映画製作の現場に立っていたことを取り上げた。今村は総じて女性を肉感的に表現することを好み、作品には『うなぎ』も含め多くの作品で女優のヌードシーンが登場している。また『ええじゃないか』の女優の放尿シーンは映像倫理審査会の規定に触れるとして物議をかもした事がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今村昌平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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