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今村春吉 : ウィキペディア日本語版
今村春吉[いまむらはるきち]

今村 春吉1894年〈明治27年〉2月4日 - 1989年〈平成元年〉7月19日)は、長崎市外科医師洋画家
*現長崎大学医学部卒業後、長崎市万屋町にて外科医院を開業、長崎市医師会長等を務めた。
*長崎游泳協会(鼠島、小堀流)に貢献し、師範を務めた。
*孫に、今村雅樹日本大学理工学部教授建築家)、今村佳樹(日本大学歯学部教授)。
*長崎市医師会名誉会員、長崎美術協会名誉会員
年譜
*明治27年 長崎市外浦町にて出生
*大正2年 県立長崎中学校卒業
*大正7年 長崎医学専門学校卒業
*大正11年 長崎市万屋町にて今村外科医院開業
*昭和9年〜 創画会展、西日本美術展、春台展 入選出展
*昭和14年 二科展鈴木信太郎に入門、二科展入選
*~昭和30年 二科展
*昭和25年〜27年 長崎市医師会会長就任
*昭和25年〜 長崎市美術展審査委員、市展・県展審査委員 
*昭和26年 一水会展入選
*昭和30年 鈴木信太郎、野間仁根、高岡徳太郎らと二科会を退会し一陽会結成
*〜昭和58年 一陽会
*昭和30年 長崎県社会保険診療報酬請求所専任審査員に任命
*昭和30年 今村外科医院を廃業
*昭和39年 一陽会展(第10回展)にて作品「教会へ行く道」が特待賞を受賞
*昭和40年 一陽会会友
*昭和42年 杠葉(ゆずりは)病院初代分院長
*昭和58年 一陽会を病気のため退会
*昭和61年 妻カヤ死去
*昭和62年 今村春吉画集「私の絵のあゆみ」を出版
*平成元年 没
作品
*二科展:
*昭和15年「居留地のパン屋」、
*昭和16年「造花に囲まれるマリアの石像」(東郷青児にて二科展推奨)、
*昭和17年「支那寺の韋駄天」、
*昭和18年「支那寺千里眼」、
*昭和21年「廃墟に祈る」、
*昭和22年「山手の聖校舎から見える風景」、
*一水会展:
*昭和26年「礼拝堂」、
*昭和27年「マリア孤児園の見える風景」、
*昭和28年「港の夕暮れ」、昭和29年「港の夕暮れ」、
*一陽会展:
*昭和34年「天主堂の中」、
*昭和35年「大天使ミカエルの像」「玄関先の帽子掛け」、
*昭和36年「赤寺魚坂」、
*昭和37年「ステンドグラスの窓」、
*昭和41年「古風な椅子」、
*昭和42年「古いピアノのある部屋」「明治の洋館」、
*昭和44年「南洋の人形とランプ」、
*昭和46年「港長崎」「鎧戸と大きな水瓶」、
*昭和47年「窓」、
*昭和48年「マリア園」「協会へ行く道」、
*昭和50年「長崎南山手」、
*昭和51年「窓辺の古い赤いピアノ」、
*昭和52年「室内静物」、
*昭和56年「万屋町宮日前夜祭傘鉾のだしと赤い垂帷」、
*昭和57年「長崎南山手の家」、
*昭和58年「残った玄関先のステンドグラス」
*その他
*昭和50年年「長崎風景」長崎の画家美術秀作展、
*昭和52年長崎市万屋町おくんち奉納踊り記念深川焼き絵皿「鯨の潮吹き」、
*戦後の占領下で長崎平和祈念式典の開催を許可したビクター・デルノア中佐が大切にしていた油絵「焼け落ちた浦上天主堂の油絵」は、今村春吉が描いた絵だと判明。当時長崎大学関係の医師として、被爆地への救護活動時の惨状を記憶して、自宅アトリエで描いたものだと推測。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「今村春吉」の詳細全文を読む



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