翻訳と辞書
Words near each other
・ 今津PA
・ 今津のザゼンソウ群落
・ 今津ひさ夫
・ 今津スタジアム
・ 今津パーキングエリア
・ 今津ランプ
・ 今津ヴォーリズ資料館
・ 今津中学校
・ 今津健治
・ 今津光博
今津光男
・ 今津出屋敷線
・ 今津南ランプ
・ 今津孝次郎
・ 今津寛
・ 今津小学校
・ 今津教会
・ 今津教会会堂
・ 今津教授
・ 今津晃


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

今津光男 : ウィキペディア日本語版
今津光男[いまづ みつお]

今津 光男(いまづ みつお、1938年7月8日 - 2005年11月7日)は、日本プロ野球選手・コーチ。兵庫県尼崎市出身。
== 来歴・人物 ==
尼崎高校では甲子園に投手として3回出場。2年生時の1955年春の選抜では準決勝に進むが、山本八郎坂崎一彦らのいた浪華商に0-1で敗れる〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。翌1956年選抜は、準々決勝で県岐阜商の清沢忠彦(慶大住友金属)投手に完封を喫した〔。同年夏の選手権では、1回戦で青野修三のいた西条高に惜敗している〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。
高校卒業後、1957年中日ドラゴンズへ入団。1年目は一軍出場こそ無かったが、ウエスタン・リーグの最優秀防御率を獲得。しかし自ら希望して遊撃手に転向、2年目の1958年には牧野茂に代りレギュラーとなる。翌年は故障もあって前田益穂に正遊撃手の座を譲るが、その後も内野の準レギュラーとして活躍。1965年には広島カープへ移籍し、古葉竹織と二遊間を組む。1968年には初の規定打席(26位、打率.234)に到達。1969年までレギュラーの地位を守るが、翌年には三村敏之に定位置を譲る。1974年には阪急ブレーブスへ移り、翌年限りで引退。プロでは俊足好守の内野手として、19年間に亘って活躍した。
引退後は日本ハムファイターズ1977年1986年)の他、阪急ブレーブスの後身であるオリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ(1990年1991年)、近鉄バファローズ1992年1994年)のコーチを歴任した。オリックスのコーチ時代は佐藤和弘と二人三脚の関係であったが、ほぼ「合宿での飲み友達」だったという話もある。1990年には対日本ハム戦でトニー・ブリューワへの死球がきっかけで乱闘騒ぎが起こり、日本ハムの近藤和彦コーチを蹴り飛ばした事もあった。
2005年11月7日肺癌のため東京都清瀬市の病院で死去。享年67。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「今津光男」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.