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仏印武力処理 : ウィキペディア日本語版
明号作戦[めいごうさくせん]

明号作戦(めいごうさくせん)は、第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年3月9日フランス領インドシナ(仏印)において日本軍が駐留フランス軍を攻撃し制圧した作戦。仏印武力処理とも呼ばれる。
==背景==
1940年と1941年に、日本はヴィシー政権との協定に基づき、仏印に軍隊を展開させた(仏印進駐)。その後の太平洋戦争中もフランスのインドシナ植民地政府が統治は続けており、軍事面では日本の印度支那駐屯軍とフランス軍が共同警備の形式をとっていた。駐留フランス軍は大型艦艇の武装解除をされたものの、基本的には従来のままの戦力を維持していた。しかし、ヨーロッパ方面での枢軸国軍の戦況が悪化するにつれ、日本では外務省から仏印政府解体の意見も出始めた。
1944年6月のノルマンディー上陸作戦以降連合軍の大陸反攻が始まり、8月25日にヴィシー政権は崩壊、日本の敗色も濃くなってきた。仏印総督ジャン・ドクー海軍上級中将(Vice-amiral d'escadre)は、2月18日の時点で、本国との連絡が途絶えた場合はフィリップ・ペタン元帥から全権を与えられることとなっていた。
駐留フランス軍が次第にド・ゴール率いるフランス共和国臨時政府寄りの行動を取り始めたことから、日本陸軍は、やがて上陸が予想される連合軍部隊との挟撃を警戒した。第38軍(1944年12月に印度支那駐屯軍から改編)司令部は、駐留フランス軍を武装解除する作戦計画の検討を始め、これを最終的に「明号作戦」と命名〔当初は「マ号作戦」の名で研究していたが、秘匿名が漏れている虞があるとして1945年1月に変更された。〕。この間、第38軍司令官土橋勇逸中将は、1944年末に行った会談での仏印側首脳の反応から、共同防衛は困難と判断していた。最後通牒としての要求事項(後述)は、1945年2月1日の最高戦争指導会議において決定された。2月28日、大本営南方軍に対して、3月5日~10日の間に明号作戦を発動するよう命じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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