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仏生寺弥助[ぶっしょうじ やすけ] 仏生寺 弥助(ぶっしょうじ やすけ、生年不明 - 1863年8月8日(文久3年6月24日))は、幕末の剣豪。本名は吉村 豊次郎。練兵館最後の塾頭・原保太郎は、「日本武道史」の著者・横山健堂に、「弥助こそ当時の日本一」と語っている。菩提寺は京都市左京区心光寺〔『京都新聞』、2013年7月20日 1面 「幕末の剣豪 仏生寺弥助 三条・心光寺に埋葬か」〕。戒名は「仙徳院刃豊居士」〔。
==略歴== 越中国射水郡の漁村に生まれとされる。江戸へ出て、神道無念流の剣術道場・練兵館の風呂焚きの仕事に就くが、隠居先生と呼ばれた岡田利貞に見いだされ(仕事の合い間に道場を覗き見し、習わぬ剣術を覚えてしまった)、後に指導を受けることとなる。その腕前は初心者ながら剣を持たせたら、塾内の練達者を打ち負かすほどだったという。時に弥助16歳。このエピソードからも天才肌の人物だったと可能性が高い。練兵館における弥助の強さは一目置かれており、幕末の剣豪として知られる長州(岩国領)藩士の宇野金太郎が塾の重鎮の斎藤歓之助(大村藩の剣術指南役)を打ち負かした。これに対し、面子潰れを恐れた錬兵館の切り札として弥助が出向き、宇野金太郎を叩きのめした記録が残っている。これらのことからも弥助の強さはかなりのものと推測されている。しかし文字も読めない無学者で、酒癖や素行の悪さもあり無地位に終わった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仏生寺弥助」の詳細全文を読む
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