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フランス領ルイジアナ(フランスりょうルイジアナ、、)は、北アメリカ大陸のフランス植民地・ヌーベルフランスの一管轄地域の名前である。17世紀から18世紀にかけての名称であり、この地方を探検したフランス人の探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールによって、フランス国王ルイ14世に因んでルイジアナと名づけられた。元々、その領域はミシシッピ川流域のほとんどを含んでおり、南北は五大湖からメキシコ湾まで、東西はアパラチア山脈からロッキー山脈まで広大に広がっていた。管理上は、アーカンザス川から北のアッパー・ルイジアナ(フランス語:Haute-Louisiane)とローワー・ルイジアナ(フランス語:Basse-Louisiane)に分かれていた。現代のアメリカ合衆国ルイジアナ州は、フランス領ルイジアナのほんの一部に過ぎないが、これは歴史的な地域の名前を貰ったものである。 1682年にラ・サールがこの地域を探検して、フランスが領有権を主張したものの、人も財源も不足していたために大きな発展は暫くの間無かった。フレンチ・インディアン戦争において、フランスがイギリスに敗れたことにより、1763年にミシシッピ川を境として東側をイギリスに、西側はフロリダと引き換えにスペインに割譲された。フランスは秘密の条約で西側の領土を取り戻したが、ナポレオン・ボナパルトが1803年にアメリカ合衆国への譲渡(ルイジアナ買収)を決め、フランスの支配は終わった。 アメリカとイギリスの間の国境を定めるために結ばれた1818年の条約で、北緯49度線より北にあった部分をイギリス領カナダに編入し、そこは今日ではアルバータ州とサスカチュワン州の一部となっている。 == 自然と地理 == 18世紀、フランス領ルイジアナは今日のアメリカ合衆国中西部のほとんどを含んでいた。今日使われている意味合いでの国境の正式な定義が無かったので、その正確な境界を同定することは難しい。人口がそこそこあって、防御線が施されていたのは、ミシシッピ川渓谷周辺のみであった。おおまかに言って、北の境界は五大湖、特にミシガン湖とエリー湖である。東は、アパラチア山脈でイギリス領アメリカ植民地と境を接していた。西はグレートプレーンズとロッキー山脈が支配できていた境界であったが、そこから先はアメリカ州の先住民族が支配する「ワイルド・ウエスト」であった。南の境界はメキシコ湾であり、植民地の港を提供していた。 植民地のほとんどが平坦であり、ヨーロッパ人の移動には都合が良かった。平均標高は1,000 m 足らずである。西部にいくと山がちとなり、中南部ではオザーク高原が例外的な高地である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランス領ルイジアナ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Louisiana (New France) 」があります。 スポンサード リンク
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