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仙台藩の家格[せんだいはんのかかく] 江戸時代に日本の陸奥国にあった仙台藩は、家臣の間に上下の序列を付けるために家格という序列制度を定めた。家格は他藩にもあるが、多数の家臣〔幕末には仙台藩の家臣は3万8,000人いたという。関(2008)p.124〕を抱えた仙台藩では独自の用語や内容も見られる。家格は上から一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出、平士(番士)、組士となる。平士・組士は狭い意味では家格を持たないものとされた。召出以上の上層家臣を「門閥」と呼んだ〔関(2008)p.124-125〕。組士の下には武士・侍に含められない卒身分があり、これも家格とは無縁である。また、家臣の家臣、つまり陪臣は仙台藩が律する対象に入らなかった。 == 家格の成立 == 仙台藩の家臣は、藩主との血縁関係がない家まで含めて、血縁関係になぞらえた家格によって上下の序列をつけられた。このうち、一家・一族の成立がもっとも早く、室町時代にさかのぼる。一家・一族を文字通りの親戚の意ではなく家臣の序列のために用いたのは伊達晴宗の代とされるが〔『伊達正統世次考』の説。小林清治が執筆した1954年刊『仙台市史』第1巻92頁は、「晴宗公采地下賜録」によって同様の説をとる。〕、もっと古く伊達尚宗・稙宗の時期に遡るとする説もある。 一門を設けたのは伊達政宗で、慶長11年(1606年)に初めて見える。政宗による領土拡大期に服属した小大名クラスと、政宗以降に分かれた分家をあわせたものである。準一家はさらに下るが、その待遇は政宗の代にできたようである。準一家は、他の戦国大名の重臣クラスが服属したものである。 政宗と次の忠宗の時代の初め(1630年代)には宿老より下に家格がなく、惣士、諸士、群臣などの言葉で一括されていた。1640年代から着座以下が細分され、準一家も正式な家格になった〔齋藤鋭雄「仙台藩家臣団の成立と編成」219-220頁。〕。さらに、正月の儀式で藩主に元旦に挨拶するか二日に挨拶するかによって着座以下に一番座、二番座の区別が作られた。狭い意味での家格は一門から召出までで、その下の平士・組士は家格を持たないものとされたが、平士の中にも序列が作られた。 家格は代々変わらず受け継がれるのが原則だが、部分的には絶えず変更があった。抜擢によって上がり、罰によって下がり、断絶すれば絶える。流動性は藩政初期に高く、後期に低かった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仙台藩の家格」の詳細全文を読む
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