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仙台馬市(せんだいうまいち)は、江戸時代の日本の陸奥国仙台で開かれた馬の定期市である。仙台の国分町で開かれたため、国分町馬市(こくぶんまちうまいち)ともいう。仙台藩で最大、全国的にも知られた大きな市で、領外から買い付けに来る者も多かった。 == 市の起源 == 仙台は慶長6年(1601年)になって新たに開かれた町である。仙台馬市の始まりもそれを遡らないが、起源は陸奥国分寺付近で開かれたと考えられる国分日町にあった。伊達政宗が国分日町で馬11頭を買い求めた代金の支払いについて命じる文書が、仙台に居城を移すことを決める前の慶長5年(1600年)10月28日付である〔『仙台市史』第9巻(資料篇2)1頁、資料番号522に「伊達政宗代物渡方黒印状」として収録。〕。仙台の国分町は国分寺付近から移転してできた町なので、馬市も国分の市から引き継いだのであろう〔伊藤信雄「仙台馬市の起源」190-191頁。なお、日市は市と同義である。〕。 国分町の馬市は、春と秋の2回に分かれて開かれた。秋の市が国分日市を引き継ぐものと思われ、初めは晩秋か冬の開催で、後に7月20日からの50日間に繰り上げられた〔伊藤信雄「仙台馬市の起源」193頁。〕。 春のものは3月上旬から4月中旬まで開かれた〔伊藤信雄「仙台馬市の起源」192頁。〕。享保10年(1725年)の文書には、岩沼で100日間開催されていた市のうち50日分が寛文元年(1661年)に仙台に移されたとある〔伊藤信雄「仙台馬市の起源」192頁。〕。そうすると春の市はこの年に岩沼から移される形で始まったと推測できる〔伊藤信雄「仙台馬市の起源」190-192頁。〕。ところが、寛永2年(1625年)に岩沼馬町が100日ではなく後世と同じく2月から3月に開催されていたことを示す文書もあり、短縮が事実だとしてもそれは寛文元年ではなさそうである〔石母田文書。小々田幸一「仙台藩の馬政について」247頁。〕。結局、岩沼馬市との関係は伺えるが、詳しい事情は不明としなければならない。 ともかくも仙台の馬市は藩の奨励によって発展し、やがて領内で第一の規模になった〔小々田幸一「仙台藩の馬政について」248頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仙台馬市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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