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仙太郎[せんたろう] 仙太郎(せんたろう 天保3年(1832年) - 明治7年(1874年)10月8日)は江戸時代~明治時代の人物。安芸国瀬戸田村(現広島県尾道市)に生まれる。幼名は三太郎、のちに倉次郎。日本人で最初のバプテスト教会の信者である。 == 生涯 == 嘉永3年(1850年)10月29日、乗船していた栄力丸が江戸からの帰路の途中、志摩の大王崎で激しい北風のため難破し、漂流。その後12月21日アメリカ商船・オークランド号に救助される。嘉永4年2月(1851年)オークランド号の目的地・サンフランシスコに行き、そこで約一年間停留する。 栄力丸の漂流民一行は、マシュー・ペリー率いる黒船艦隊が日本を訪れる際に同行させられることになる。嘉永5年2月2日軍艦セントメリー号に移され、3月3日ハワイに着いたが船頭の万蔵が病死した。残りの乗組員は9日後出航、香港へ向いアメリカ東洋艦隊のサスケハナ号に移される。香港で浜田彦蔵・治作・亀蔵の3人は再びイギリス船でアメリカに渡航。帳助、清太郎他11名は6年上海へ送られ、そこで定住していた日本人漂流者の音吉の支援を受けて脱走した。 こうして仙太郎ひとりのみがサスケハナ号に残され、真面目に働いた。同船のアメリカ人からはサム・パッチとよばれており、一説によれば、「サム・パッチ」の名は、彼が絶えず呟いていた「心配、心配」から名付けられた渾名だと云われている(some+(sin)pai=patch)。仙太郎はペリー艦隊の中での唯一の日本人として遠征に同行、日本に着いた際には通詞の堀達之助らと面会している。しかし、面会した幕府の役人を前に、平伏するばかりで何も言い出すことができなかった。幕府は帰国に身の安全を保証したが、仙太郎には処罰の恐怖が勝ったといわれている。 上陸を諦めた仙太郎は、再度アメリカに渡り、1860年に宣教師のゴーブルに従い本当の帰国を果たした。ただし、自分の意志により、終生外国人居留地から出ることはなかった。1866年にはマーガレット・テート・キニア・バラに伴って渡米している〔古き日本の瞥見 (有隣新書) マーガレット・テイト・キンニア バラ (著), Margaret Tate Kinnear Ballagh (原著), 川久保 とくお (翻訳)〕。1871年、静岡藩の学問所の教員として招聘されたエドワード・ウォーレン・クラークのコックに雇われて日本に戻り静岡で暮らしたのち、クラークが開成学校の教員になると一緒に上京した〔宮永孝「北米・ハワイ漂流奇談(その二・完)」http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/8262/1/60-2miyanaga2.pdf ,p.81 〕。1874年、脚気により死去。中村正直の計らいで、中村家の菩提寺である法華宗の本伝寺に葬られた。墓碑にはサム・パッチの音を取り、「三八君墓」と刻まれている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仙太郎」の詳細全文を読む
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