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伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。 == 概要 == 斎藤忠や太田亮が引用する『小右記』や『平安遺文』によると、もともとは中臣姓の伊勢国造(伊勢直)の一族が、伊勢国鈴鹿郡を拠点として、康和元年(1099年)10月に伊勢の三重郡司として赴任した事項が見られる。 以降は伊勢平氏の平正度の子・平季衡(下総守)の系統である鎌倉時代末期の当主平俊継が伊勢守となって以降、伊勢氏を称した〔竹内理三・高柳光壽偏『日本史辞典』第二版(角川書店)〕。南北朝時代に俊継の孫伊勢貞継が政所執事となって以降、政所執事を世襲するようになった。伊勢貞親は8代将軍足利義政の教育係を務め、政治にも大きな影響力を持ち、応仁の乱前後の情勢に大きく関与した。貞親の子の貞宗、孫の貞陸は台頭する細川京兆家の細川政元と協調し引き続き幕政に重きをなした。 貞陸の孫の伊勢貞孝とその子貞良は12代将軍足利義晴と13代将軍足利義輝に仕え、義輝の代に細川氏の没落後台頭した三好長慶と共に幕政を壟断したものの、長慶と対立し失脚・殺害されたため勢力を弱めた。長慶の死後足利義昭が織田信長と共に上洛してくると、貞良の子・貞為と貞興兄弟は幕府に仕えたが、貞為は病弱だったため家督を貞興に譲った(貞為が足利義栄に仕えた為に家督を追われたとする説もある)。 貞興は義昭の備後下向には従わず信長の家臣明智光秀の与力となり、天正10年(1582年)の本能寺の変では貞興は明智勢として二条御所の織田信忠を攻め滅ぼしたが、最終的には山崎の戦いで羽柴秀吉勢に敗れ戦死した。江戸時代には甥で貞為の子・伊勢貞衡が旗本として3代将軍徳川家光に仕え、子孫はまた礼法の家として明治まで続いた。貞衡の曾孫・伊勢貞丈は特に有職故実に通じ、伊勢礼法を大成した。 戦国大名後北条氏の祖となる北条早雲こと伊勢宗瑞は伊勢氏の一族で、系図は諸説あるが庶流の備中伊勢氏の出自だと目されている。早雲の一族が「北条」と名乗るのは、早雲の死後の息子北条氏綱の時代以後と考えられており、厳密に言えば早雲時代の北条家は「伊勢家」と呼ぶのが正しいと言える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊勢氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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