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伊勢線(いせせん)は、三重県四日市市の河原田駅から三重県津市の津駅に至る伊勢鉄道の鉄道路線である。 == 概要 == 従来、名古屋・四日市方面と南紀(尾鷲・新宮)・伊勢志摩(伊勢市・鳥羽)方面間を行き来するには、四日市市から津市の間で伊勢湾沿岸から外れて、関西本線・紀勢本線の結節点である亀山駅を経由しなければならない上に、同駅で列車の方向転換が必要とされており、所要時間の面で障害となっていた。このため、関西本線の南四日市駅と紀勢本線の津駅の間を方向転換せずに短距離で結ぶ短絡線として日本鉄道建設公団(鉄建公団)により主要幹線(C線)〔根岸線や石勝線、長崎本線長崎トンネル経由の新線(浦上線)、岡多線、瀬戸線などと同ランク〕として1965年11月から建設され〔、1973年9月1日に日本国有鉄道(国鉄)伊勢線として開業した〔。また、1962年(昭和37年)には中南勢地区に伊勢線から分岐する臨港鉄道としての南伊勢線が予定線に指定された〔川島令三『全国鉄道事情大研究 名古屋都心部・三重篇』草思社、p.93 - 94 (ISBN 479420700X / ISBN 978-4794207005) 1996年6月26日第1刷発行〕。 しかし、伊勢線沿線の工業開発計画は四日市ぜんそくに端を発して猛反対に遭い、第1次オイルショックもあってやがて頓挫してしまい、南伊勢線の建設も凍結されてしまった。このことから、伊勢線の開業時には1日に特急「くろしお」1往復、急行「紀州」(いずれも特急「南紀」の前身)3往復、普通7往復しか運転されず(その上に伊勢線を経由する貨物列車は運転されず、関西線名古屋・四日市方面と紀勢線津以南方面間を往復する貨物列車は亀山経由で運転され続けた)、並行している近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線では伊勢線開業当時は1日あたり特急44往復、急行34往復、準急9往復、普通62往復運転され、同社には鈴鹿線もあるため、伊勢線は全くと言ってよいほど利用されなかった〔。 そのため、この路線単独での利用者数は伸び悩み、開業10年後の1983年(昭和58年)には営業係数が646という超赤字路線となった〔上に、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)にてバス転換が妥当とされた輸送密度4,000人/日未満を下回った(1981年〈昭和56年〉度当時1,495人/日)ため、第2次特定地方交通線に選定され、1986年に第三セクター鉄道への転換が決定し、1987年3月27日に伊勢鉄道の路線となった。伊勢鉄道への移管時に起点を河原田駅に変更し、現在も特急「南紀」や快速「みえ」が当路線を通り名古屋と鳥羽・新宮方面の間に運転されている〔。 なお、種村直樹は「このような性格の路線が機械的に特定地方交通線に指定されたのは利用者を馬鹿にしている」と指摘している〔「国鉄・JR廃線カタログ―昭和24年以降廃止された98路線完全収録 (別冊歴史読本 (73))」新人物往来社、1996年、p.90 (ISBN 4404024304 / ISBN 9784404024305)〕。また、鉄道評論家(鉄道アナリスト)の川島令三は「伊勢線の営業成績が悪かったのは、伊勢鉄道に継承された時点で普通の運転本数は1日7往復のまま、優等列車も『南紀』1日4往復のままという国鉄の消極的経営の結果であり、名古屋と南紀・伊勢志摩方面の短絡線として積極経営すれば国鉄の重要路線となったはずである」と、当時の国鉄の経営姿勢とこの路線の第三セクター転換に疑問を投げかけた上で「機械的に地方交通線に指定するのは疑問だという声は大きかった」と述べている〔。 2012年(平成24年)度の輸送密度は約3,691人〔(国土交通省鉄道局監修、一般財団法人)運輸政策研究機構発行『数字でみる鉄道 2013』(ISBN 978-4-903876-51-1 2013年10月31日発行) p.66〕である(1986年度からの毎年度の輸送密度は「利用状況」の節を参照)。 建設当初から全線に亘って複線分の用地が確保され、将来の電化に備えて架線柱用の用地または架線柱の基礎があり、ほとんどが高架になっているなど幹線級の設備を持っている〔『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 27頁〕。津駅北方には紀勢本線亀山方面への線路を乗り越える将来の四日市方面への線路用となる立体交差用の橋梁も架設済み。踏切は鈴鹿市内(鈴鹿 - 玉垣間)に1か所存在するのみである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊勢鉄道伊勢線」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ise Railway Ise Line 」があります。 スポンサード リンク
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