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伊号第百二十二潜水艦(いごうだいひゃくにじゅうにせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦。伊百二十一型潜水艦の2番艦。竣工時の艦名は伊号第二十二潜水艦(初代)。1945年日本海において米潜水艦の攻撃で沈没した。 == 艦歴 == 1921年(大正12年)度計画艦。当初の予定艦名は第四十九潜水艦〔1924年(大正13年)11月1日に伊号第~潜水艦の名称に変更される。〕。1925年(大正14年)2月28日に神戸川崎造船所で起工、1926年(大正15年)11月8日に進水、1927年(昭和2年)10月28日に竣工。呉鎮守府籍。竣工時の艦名は伊号第二十二潜水艦。 1938年(昭和13年)6月1日に伊号第百二十二潜水艦と改名。 太平洋戦争開戦時には伊号第百二十一潜水艦とともに第6潜水戦隊第13潜水隊に所属。1941年(昭和16年)12月シンガポール沖に機雷30個敷設。1942年(昭和17年)1月ダーウィン沖を哨戒、2月トレス海峡西を哨戒、3月21日呉港に帰港した。 二式飛行艇のハワイ偵察支援(給油)のため、機雷庫と敷設筒をガソリンタンクに改造するがハワイ偵察はその後中止となった。 8月ラバウルへ進出、8月7日ラバウルを出港しガダルカナル島とツラギを偵察、9月9日インディスペンサブルで水偵に給油。12月5日呉に帰港し修理を行った。1943年(昭和18年)3月再度ラバウルに進出しニューギニア・ラエ輸送に10回従事する。9月1日呉に帰港、以後は練習潜水艦となった。 1945年(昭和20年)6月4日舞鶴に回航、9日に出港し七尾湾に向かったが、途中の石川県禄剛岬灯台付近でバーニー作戦により日本海に侵入した米潜水艦スケートの攻撃により沈没した。艦長以下85名全員戦死、翌10日に沈没が確認され、終戦後の1945年(昭和20年)9月15日に除籍された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊号第百二十二潜水艦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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