|
伊号第二十九潜水艦(いごうだいにじゅうくせんすいかん、旧字体:伊號第二十九潜水艦)は、大日本帝国海軍の伊十五型潜水艦(巡潜乙型潜水艦)の10番艦。最初は通商破壊任務に用いられ、インド洋を主戦場として7隻の船舶を撃沈した。また、日本とドイツの往復に成功寸前まで行った潜水艦として有名。 当初は伊号第三十三潜水艦と命名されていたが、1941年(昭和16年)11月1日に伊号第二十九潜水艦と改名されている〔昭和16年11月1日付 海軍達 第333号。〕。 ==艦歴== 横須賀海軍工廠で建造され、1942年(昭和17年)2月27日に竣工した。 1942年(昭和17年)8月からインド洋方面での通商破壊に従事。9月2日、のインド洋で英船「ガスコン」(Gascon、4,224総トン) を撃沈した。10日には、のソコトラ島81度120浬の地点付近で英船「ハースフィールド」(Hearthfield、5,299総トン) を撃沈。16日には、のインド洋で英船「オーシャン・ホーナー」(Ocean Horner、7,174総トン) を撃沈した。23日には、の地点付近で米船「ポール・ラッケンバック」(Paul Luckenbach、6,606総トン) を撃沈した。10月2日にペナンに入港。11月11日にペナンを出港し、モルディヴ諸島経由でアラビア海に進出。23日にアラビア海南部で英客船「ティラワ」(Thilawa、10,006総トン) を雷撃により撃沈した後、ノルウェーのタンカー「ベリタ」(Berita、6,323総トン) を撃沈した。1943年(昭和18年)1月8日、ペナン入港。 1943年(昭和18年)4月28日、マダガスカル島南南西1000kmの地点付近でドイツのU180と会同し、反英インド独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースと秘書ハッサン、成形炸薬弾の実弾、独潜水艦の設計図、キニーネ2tを乗せ、U180にドイツに派遣される江見哲四郎海軍中佐、友永英夫技術中佐、赤城型空母と特殊潜航艇の設計図、魚雷1本を移乗させた。そして、ボース氏一行を日本に連れ帰ったことで有名となる。 6月8日にペナンを出港し、アフリカ東岸、ペルシャ湾、アデン湾で通商破壊戦に参加。7月12日、英船「ラマニ」(Lamani、5,463総トン) を撃沈した。その後、ペナンを経由して呉に帰投し、修理を受ける。 11月5日、第四次遣独潜水艦として呉を出港。12月14日にシンガポールに到着し、駐独日本大使館付海軍武官として赴任する小島秀雄少将他日本人技術者を乗せ、12月16日にシンガポールを出航、1944年(昭和19年)3月11日にフランス大西洋岸のドイツ潜水艦基地ロリアンに入港した。そこでドイツ空軍向けのタングステン30トン他の積荷を下ろし、Me163、Me262のエンジン資料、対空射撃管制用ウルツブルクレーダー、エニグマ暗号機他を積み込んだ後、海軍航空本部の造兵監督官として滞独した巌谷英一が便乗した。同艦は4月16日にロリアンを出航、7月14日にシンガポールに入港した。巖谷英一はいち早く新兵器の報告をすべく空路東京に向かった。 しかし、呉へ向け水上航走中、7月26日16:45、のフィリピンバリンタン海峡サブタン島の南方12km地点付近でアメリカ海軍潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) の発射した魚雷3発が命中。貴重なドイツからの技術資料を日本に届けることなく撃沈され、生存者1名を除く、潜水艦長の木梨鷹一中佐以下全乗員が戦死した。帰投予定日を超えても帰還しないことから同年10月10日、戦没認定され除籍された。 撃沈隻数は7隻で、撃沈トン数は45,095トンにのぼる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊号第二十九潜水艦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|