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伊東 里き(いとう りき、Riki Ito、慶応元年11月2日〔グレゴリオ暦:1865年12月19日〕 - 昭和25年〔1950年〕3月14日)は、北アメリカへの移住に尽力した日本人女性。アメリカ合衆国で助産師の資格を取得した初めての日本人であるとされる〔志摩町史編纂委員会 編(2004):804ページ〕。三重県英虞郡片田村(現在の志摩市志摩町片田)出身。 明治末期から昭和初期にかけて、片田村では里きを頼って多くの村人がアメリカに渡り、片田村は「アメリカ村」と呼ばれた〔志摩町史編纂委員会 編(2004):803ページ〕。出身地の高齢者の間では、「片田の英雄」と呼ばれている〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):6ページ〕。 == 来歴 == === アメリカとの出会い === 慶応元年(1865年)に医師の伊東雲鱗の子として生まれる〔志摩町史編纂委員会 編(2004):801ページ〕。小さい頃から和漢の書物に親しみ、何事にも積極的な娘であったという〔郡長昭(2011):14ページ〕。1875年(明治8年)に地元の片田小学校下等八級を卒業した〔。 1885年(明治18年)頃〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):190ページ〕、医師になるために済生学舎(現日本医科大学)で学んでいた兄の一郎〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):18ページ〕の炊事婦として、妹の操とともに上京する〔。東京での生活中、横浜・関内に遊びに行ったときにアメリカ人の落とし物を拾い、そのお礼に夕食をご馳走されたことがアメリカと出会うきっかけとなった、ということが通説とされる〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):18 - 19ページ〕。ただし、里きの子孫に伝わる話では、里きの叔父の知人・野尻政助(大佛次郎の父)が横浜に住んでおり、そこからアメリカに関する知識を得て、将来のことを考えた、となっている〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):19ページ〕。こうしてアメリカに興味を持った里きは、片田村の女性に「リキ キトク スグコイ」と電報を打ち、東京に呼び寄せ、兄の世話を任せることにした〔。そして里き自身は1887年(明治20年)から メイドとして横浜在住のアメリカ人の家庭で働くようになった〔。里きが最初に仕えた家庭はレンガの製造技術者、次に仕えたのは海軍の大尉であった〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):20ページ〕。 また、里きは1887年(明治20年)9月6日 〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):191ページ〕に東京で知り合った三重県答志郡上之郷村(現・志摩市磯部町上之郷)出身の中安守と結婚した〔里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):21ページ〕。しかし性格が合わず、1888年(明治21年)に 離婚の手続きをしようと上之郷村に赴くも、中安が失踪したために正式に離婚することはできなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊東里き」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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