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伊東 正治(いとう まさはる 1951年7月5日 - )は、毎日放送(MBSラジオ)のプロデューサー・パーソナリティ。元・同局アナウンサーで、放送上の愛称はまーぼー。 毎日放送では、1975年の入社以来、アナウンサー・ラジオ局編成部長・番組審議会事務局長などを歴任。60歳の誕生日(2011年7月5日)で定年を迎えてからも、「シニアスタッフ(嘱託社員)」〔2014年7月13日にMBSテレビで放送された『MBSマンスリーレポート』の特集「シニアスタッフ 伊東正治 元アナウンサー」 〕として、MBSラジオでの番組制作・出演を続けている。 == 来歴 == 東京都渋谷区の出身で、血液型はB型。中・高校生時代には卓球部〔『モーニングミックス』公式サイト内の「伊東P編集日誌」2013年5月15日付記事 〕、早稲田大学政治経済学部への在学中には学内の放送研究会で活動していた。 大学卒業後の1975年に、アナウンサーとして毎日放送へ入社した。同期のアナウンサーに結城哲郎(2011年からGAORAへ出向中)がいる。 毎日放送入社後の1977年4月から1989年3月まで、深夜のラジオ番組『MBSヤングタウン』(以下『ヤンタン』と略記)へレギュラー出演。12年という出演期間は、同局のアナウンサーでは、先輩の角淳一(現在はフリーアナウンサー)と並んで現在でも最長記録に当たる。また、月曜日で長らく共演していた明石家さんま・大津びわ子や、当時のリスナーなどからは現在でもまーぼーと呼ばれている。 1978年には、地方民間放送共同制作協議会(火曜会)制作のラジオ番組『飛び出せ!全国DJ諸君』(火曜会加盟の地方ラジオ局で放送)において、毎日放送代表でパーソナリティを担当。放送後の人気投票によって、同年度の奨励賞を受賞した。1980年からは、テレビ・ラジオを問わず、スポーツ中継での実況やリポーターも担当するようになった〔渡邊一雄『ヤンタンの時代。』(2005年、キッズネット)第一章「みんな名もない新人だった 伊東正治編」より〕。 1989年4月から1991年3月まではBBC(英国放送協会)に出向。日本語放送のアナウンサーを務めた。帰国後の1991年4月に、アナウンサーとして毎日放送に復帰。1994年8月末まで、テレビ夕方のニュース番組『MBSナウ』で、木~土曜のメインキャスターを担当した。阪神・淡路大震災の発生直後(1995年1月17日)には、MBSラジオで連日、報道特別番組(主に深夜~早朝放送分)のスタジオキャスターを務めている〔『伊東正治のミュージック・バル』公式サイト内2015年1月13日付スタジオ日記「あの日」 や、毎日放送編『阪神大震災の被災者にラジオ放送は何ができたか―「被災していない人への情報はいらない!」と言い続けた報道者たち』(同文社出版・1995年)に掲載の放送記録を参照。〕。 2003年7月の人事異動で、アナウンサー室からラジオ局ラジオ制作部へ移った。その後は、チーフプロデューサーとして、『ノムラでノムラだ♪』『ラジオの達人』などを担当。2006年7月からは、ラジオ局編成部長として、『子守康範 朝からてんコモリ!』の立ち上げなどに関わった。その後は、コンプライアンス室への異動を経て、番組審議会の事務局長を歴任。ラジオ局ラジオ制作部へ復帰してからは、『モーニングミックス』『日曜出勤生ラジオ』のプロデューサーを務めた。 2010年8月29日にMBSラジオで生放送された毎日放送開局60周年記念特別番組『さんまのヤングタウンスペシャル』では、『ヤンタン』月曜日のレギュラー出演者として、久々に生放送番組へ登場。2013年3月9日からは、『モーニングミックス』のプロデューサーを務めながら、土曜日放送分のみワンマンDJスタイルでラジオパーソナリティとしての活動を本格的に再開した。 『モーニングミックス』では、2014年4月から金曜日のパーソナリティへ異動した後に、同年9月26日の最終放送までパーソナリティを担当。同年10月5日(日曜日)以降は、自身の出演曜日分の企画を引き継ぐ冠番組『伊東正治のミュージック・バル』シリーズで、引き続き「ワンマンDJ」スタイルのパーソナリティを務めている〔『伊東正治のミュージック・バル』2014年10月3日付スタジオ日記「10月5日スタートです!」 〕。また、アナウンサー時代から現在に至るまで、MBSラジオの自社制作生ワイド番組でパーソナリティ代理を何度も担当している(後述)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊東正治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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