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伊東義祐 : ウィキペディア日本語版
伊東義祐[いとう よしすけ]

伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将日向国戦国大名日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充祐吉は同母兄弟。
== 生涯 ==

=== 家督相続 ===
天文2年(1533年)、日向伊東氏9代当主で兄・祐充が若死にすると、叔父・伊東祐武が反乱を起こし、祐充や祐清(義祐)の外祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を自害に追い込み、都於郡城を占拠してしまう。残された祐清・祐吉兄弟は後ろ盾を失い、日向を退去し上洛しようとしたが、祐武を支持しない者達の制止を受けて思いとどまり、財部に引き返して祐武方と対峙した。こうして家中を二つに分けた御家騒動となったが、知将・荒武三省の機転で祐武は自害し、祐清・祐吉方は都於郡城を奪回した。
乱の収束後、伊東氏の家督は長倉祐省の後援で弟の祐吉が継ぎ、祐清は出家を余儀なくされる。ところが3年で祐吉が病死したため、天文5年(1536年7月10日に還俗し佐土原城へ入ると11代を相続した。
翌天文6年(1537年)、従四位下に叙せられ将軍足利義晴の偏諱を受け、以後「義祐」と名乗る。天文15年(1546年)には従三位に叙せられ、天文18年(1549年)には嫡男・歓虎丸の病死を契機に再び剃髪し「三位入道」を称した(ただし、従三位叙任の時期には異説がある)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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