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伊治呰麻呂[これはり]
伊治 呰麻呂〔史料には伊治公呰麻呂(これはり/これはる の きみ あざまろ)とあるため、これに準じて記される場合も多いが、姓の「公」(きみ)を付けたものである。〕(これはり/これはる の あざまろ、生没年不詳)は、8世紀後半の日本、奈良時代の東北地方で活動した蝦夷の指導者。姓は公。官位は外従五位下・上治郡大領。 宝亀11年(780年)に伊治城〔 神護景雲3年2月(769年3月)、伊治郡内(のちの栗原郡城生野村、現・宮城県栗原市築館城生野[つきだてじょうの]と推定される)に築かれた城柵。〕で宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)を起こした。 == 姓(伊治・上治)の読み方 == 史料に読み方が記されていなかったため、後世「伊治」は長らく音読みで「いじ」と読まれてきた。また、「呰麻呂」は『続日本紀』に上治郡の大領に就任していたと記されているが、ここに見る「上治郡」が後世のどこに当たるのか(「伊治郡」のことではないか、後世の栗原郡と同定できないか、等々)は明らかでなかった。ところがそののち、「此治郡」という表記のある木簡が出土したため、「此」と「伊」は訓読みで「これ」の同音異字で通じ、「上治」を「此治」の誤記とする説が優勢となり、現在では「これはり」または「これはる」との読みが有力説となっている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊治呰麻呂」の詳細全文を読む
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