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藤原 忠清(ふじわら の ただきよ)は平安時代末期の武将。伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏譜代の有力家人である。伊藤忠清とも。 == 生涯 == === 平氏の侍大将 === 保元の乱で平清盛の軍の先陣を務め、源為朝と戦う。この時、為朝の強弓を前に苦戦を強いられ、弟の忠直(伊藤六)が戦死する。平治の乱の直後には清盛の命で、二条天皇側近の大炊御門経宗・葉室惟方を逮捕している(『愚管抄』)。 左兵衛尉を経て、嘉応2年(1170年)に右衛門少尉となる。忠清は平氏一門の中でも特に平重盛に近仕しており、重盛の嫡男・維盛の乳父(めのと)でもあった。その後、何らかの理由で上総国に配流された忠清は、現地の有力在庁官人・上総広常の歓待を受ける。広常の態度は「志ヲ尽シ思ヲ運テ賞玩シ愛養スル事甚シ」かったという(『源平盛衰記』)。 忠清は閑院内裏の警備軍を指揮する立場にあり、安元3年(1177年)4月の延暦寺大衆の強訴では防備に当たった。この時に威嚇射撃の矢が神輿に命中し、大衆側に死傷者が出た。この結果、院と延暦寺の抗争は激化し、天台座主・明雲の配流と奪還、後白河法皇による延暦寺攻撃命令、鹿ケ谷の陰謀へと展開していくことになる。 治承三年の政変(1179年)で忠清は、解官された藤原為保に代わり上総介となり、従五位下に叙せられた。その際に、「坂東八ヵ国の侍の別当」(『平家物語』)として東国の武士団を統率する権限も与えられたらしい。後年、和田義盛は源頼朝に恩賞としてその職を望み、鎌倉政権の侍所別当に補任された。上総国の国衙を掌握した忠清は、上総広常に対して恩を忘れた強圧的な態度に転じ、陳弁のため上洛した広常の子・能常を拘禁する。忠清の圧迫に怒った広常は、やがて平氏に反旗を翻すことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原忠清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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