翻訳と辞書
Words near each other
・ 伊藤助太夫
・ 伊藤助成
・ 伊藤勇
・ 伊藤勇士
・ 伊藤勘作
・ 伊藤勝一
・ 伊藤勝三
・ 伊藤勝久
・ 伊藤勝也
・ 伊藤勝利
伊藤勝吉
・ 伊藤勝康
・ 伊藤勝彦
・ 伊藤勢
・ 伊藤勲
・ 伊藤勲 (政治学者)
・ 伊藤勲 (曖昧さ回避)
・ 伊藤勲 (野球)
・ 伊藤勳
・ 伊藤勳 (英文学者)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

伊藤勝吉 : ウィキペディア日本語版
伊藤勝吉[いとう かつきち]
伊藤 勝吉(いとう かつきち、1892年1月12日 - 1963年10月1日)は日本騎手調教師阪神競馬倶楽部日本競馬会国営競馬日本中央競馬会)。鳥取県出身。息子に騎手・調教師の伊藤修司が、娘婿にプロ野球選手競馬評論家古川清蔵がいる。
 

== 生涯 ==
1905年(明治38年)10月5日、14歳で見習騎手として青池良佐厩舎に弟子入りし、1907年阪神競馬場での競走にコノハナという馬でデビューし、初騎乗初勝利を挙げた。しかし翌年には馬券発売が禁止となったため、1910年(明治42年)5月にロシアに渡り、ウラジオストクで5ヶ月間ほど騎乗した。その後帰国し、1911年(明治43年)には、阪神競馬場での3日間の開催で15勝を挙げる活躍ぶりを見せた。1912年(明治44年)には、20歳にして早くも青池から独立して厩舎を開業し、以後、有力馬主にも引き立てられ、騎手・調教師のそれぞれで活躍を続けた。
騎手としては、帝室御賞典を8勝する活躍を見せた他、数々の名馬に騎乗して勝利を重ねた。1929年(昭和4年)10月6日の阪神競馬では、3レース続けてレコード勝ちを収めるという記録も残している。また調教師としても多くの実力馬を管理し、クレオパトラトマスやテツザクラには、自ら騎乗して活躍した。競走馬調教にあたっては鳴尾競馬場内の施設のほかに、自宅敷地内に建設した厩舎と馬場(1周約800メートル)を用いていた。
長年、騎手と調教師を兼務していたが、1938年調騎分離制度が導入されたことにより、1942年に、35年間にわたる騎手を引退し調教師に専念した。
調教師専業になってからは、1949年優駿競走(現在の東京優駿)タチカゼで、オークスをオーカンチトセホープで優勝するなどクラシック6勝を挙げた。また田中好雄松田由太郎清田十一服部正利杉村一馬など22人もの弟子を育てた。
関東の大調教師であった尾形藤吉とは、1927年(昭和2年)に尾形が阪神競馬場に遠征して、伊藤の持ち馬とマッチレースを行って以来の親友で、遠征の際にはお互いの厩舎に馬を預け、自身はお互いの家で寝泊りするなど親しい関係を続けた。また息子の修司を弟子入りさせたこともある。その一方で“東の尾形(藤吉)、西の伊藤(勝吉)”と言われるほどのライバル関係も持っており、尾形は、「長年の付き合いで一度も口論した事もないが、競馬では別であり、お互い手を抜くことなく勝負した。」と語っている。
なお、日本競馬史上唯一、管理馬の優駿競走(日本ダービー)の優勝時に東京競馬場以外の競馬場にいた調教師である(タチカゼ優勝時には京都競馬場にいた)。
1963年10月1日高血圧による合併症の為、阪大付属病院にて死去。10月22日には、閣議において「永年業務に精励し、衆民の模範たるべき者」として、褒章条例による褒章として、遺族追賞の授与が決定し、11月2日に京都競馬場にて授与された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊藤勝吉」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.