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伊藤 哲也(いとう てつや、1970年10月1日 - )は、千葉県千葉市出身(北海道札幌市生まれ)のサッカー指導、元サッカー選手 。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。 == 来歴 == 小学校4年生の時にサッカーを始め〔元Jリーガーが授業 長生・高根小で「夢の教室」 千葉日報 (2013年7月13日)〕八千代松陰中学校・高等学校から法政大学を経て、1993年にNKKサッカー部に加入。しかし、この年限りで廃部となったため、1994年より横浜マリノスに移籍。井原正巳、小村徳男、鈴木正治らDFにタレントを揃える横浜Mでは出場機会に恵まれなかった。 1997年、サンフレッチェ広島に期限付き移籍(翌年完全移籍)。上村健一、トニー・ポポヴィッチらと堅守を築き〔広島が起こすセンターバック革命 躍進を支える“超攻撃的3バック” スポーツナビ (2009年7月10日)〕、冷静な判断力を武器とする頭脳派DFとして活躍した。 2001年、NKK在籍時に指導を受けた倉又寿雄がヘッドコーチを務めるFC東京へ移籍〔 サンフレッチェ広島F.C (2000年12月27日)〕〔 FC東京 (2000年12月26日)〕。CB、SBで堅実なプレーを見せ、守備陣を統率する〔 東京中日スポーツ (2001年7月19日)〕 リーダーシップを発揮した。2002年には、的確なカバーリングと駆け引きで新加入のDFジャーンをサポートしていたが、シーズン終盤にかけてコンディションを崩し茂庭照幸の台頭を許した。2003年は足首の負傷もあって〔 FC東京 (2003年4月24日)〕 出場機会を得られなかったが、伊藤の努力を絶やさない姿勢はチームの財産となった〔FC東京の実体 (2/3) スポーツナビ (2005年6月2日)〕。 2004年、大分トリニータに移籍するも〔 大分トリニータ (2004年1月19日)〕〔 FC東京 (2004年1月19日)〕、負傷が重なりリハビリや別メニュー調整が続いた〔 大分トリニータ (2004年6月21日)〕 ことから同年限りでの現役引退を表明〔 大分トリニータ (2004年12月4日)〕。 2005年7月、広島在籍時のチームメートである森山泰行らから請われ、FC岐阜でアマチュアとして現役復帰〔 FC岐阜 (2005年7月22日)〕。岐阜市内の企業、ヒマラヤに勤務していた。日本フットボールリーグ及びJ2昇格に貢献し、2007年をもって現役引退。2008年にはコーチ専任となり、2009年からはアマチュアチームのFC岐阜SECOND監督を務めた。2012年には岐阜SECOND設立時からの目標である地元開催の国体に臨んだが、京都府代表の佐川印刷SCに敗れ、ベスト8に終わった(京都が優勝)〔ぎふ清流国体 最終結果 種目別総合優勝 (天皇杯獲得) 岐阜県サッカー協会〕。同年限りで監督を退任〔契約満了スタッフのお知らせ FC岐阜 (2013年1月12日)〕。 後に地元千葉でサッカースクールのコーチを務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤哲也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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