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伊藤多喜雄 : ウィキペディア日本語版
伊藤多喜雄[いとう たきお]
伊藤多喜雄(いとう たきお、1950年10月6日 - )は、日本の民謡歌手作曲家、音楽プロデューサー。2005年(平成17年)から洗足学園大学客員教授、2014年(平成26年)から札幌市手稲区ふるさと大使を務める〔札幌市手稲区役所HP>手稲区の大使>手稲区ふるさと大使:伊藤多喜雄さん 〕。
長女は歌手の安曇野めぐ留(現在は改名してめぐ留)。
== 経歴 ==
1950年(昭和25年)、北海道苫小牧市漁師を営む両親の12人兄弟の末っ子として生まれる。
幼少期から父親が歌う追分と津軽出身の母親が歌う津軽民謡に親しみ〔別冊太陽 75 日本の音楽(平凡社、1991年)P.115〕、その声は地元でも評判となる。苫小牧市立凌雲中学校卒業後の1966年、16歳で民謡歌手を志望して上京。
18歳でNHK民謡オーディションに合格し、一躍「民謡界のホープ」として将来を嘱望されるようになる。
1976年(昭和51年)、日本民謡協会「民謡民舞全国大会」において3年連続優勝。協会より民謡の教授免許認定。
メジャー・デビューが約束されていたが、自身の歌手としてのスタイル模索に悩まされ、一時期不遇の時代を過ごすこととなる。その間海外に渡り、各地のライブハウスに民謡で出演すると在日系人たちにはもちろんだが、ことのほか現地の人々にも好評であった事に自身を取り戻し1982年(昭和57年)に帰国。
1983年(昭和58年)、同時代の若き三味線奏者尺八奏者と共にTAKiO BANDを結成。伊藤多喜雄の艶のある高音に加えて、和楽器に電子楽器を加えたダイナミックな演奏など、民謡を現代的にアレンジしたスタイルを確立させる。
当初、保守的な民謡界からは異色のスタイルに冷ややかな目もあったが、永六輔小室等林英哲などから絶賛され、精力的なライブ活動も相まって幅広い世代に支持をされる。以後、TAKiO BANDを主体として活動。
1986年(昭和61年)、『TAKIO JINC』(CBSソニー)でCDデビュー。プロデューサーに小室等を迎え、林英哲(和太鼓奏者)、佐藤允彦ジャズピアニスト)、高田みどりパーカッショニスト)ら異なるジャンルの奏者と共演。
続く1988年(昭和63年)に2枚目のCD『TAKIO』を発表。その特異性から、発売当時のカテゴライズは、1st「ニューエイジミュージック」、2nd「民謡/ロック」だった。1989年(平成元年)、NHK紅白歌合戦初出場。
1991年(平成3年)、自由な音楽活動を求めて独立。自身の音楽事務所「TAKIOプロモーション」を設立し、自主製作盤『TAKIO SPIRIT』をリリース。全国津々浦々のライブ活動の一方で、数多くの海外公演にも出演。日本の民謡を広く伝える活動を展開する。
また、地域に埋もれた民謡や民衆文化の発掘に取り組み、その成果は以後の活動にも反映されていく。1993年(平成5年)、稚内市立稚内南中学校の生徒のために「ソーラン節」をプロデュース。斬新な踊りを交えたソーラン節が、南中ソーラン、ロックソーラン等と言われ、全国的ブームとなり、後にCD、映画化される。
2003年(平成15年)、紅白歌合戦2度目の出場。曲目「TAKiOのソーラン節」。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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