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駒(こま)は、将棋において盤上に並べて動かす用具である。駒を識別するため、先が尖った五角形の木片の表裏面に文字が書かれている。本項では将棋の駒の歴史や製作法について記載する。駒の種類については将棋類の駒の一覧を参照。 製品としては将棋駒と呼ばれ、一般には将棋の駒と呼ばれる。現在一般に行われている将棋は本将棋であり、本稿でも本将棋の駒について解説するが、書かれる字が違うだけで他の将棋で使われる駒も製法に変わりがない。 == 歴史 == 平安時代から五角形の板に墨で字を書くという形式を保ち、ほとんど変化していない。現在発掘されている駒で年代が特定されているもののうち、もっとも古いものは奈良県の興福寺旧境内跡から発掘されたものである。駒と同時に、「天喜六年」(1058年)と記された題籤軸が出土しており、駒の製作時期が11世紀頃であることがほぼ断定されている。駒は木簡を切ったものに墨で文字を書いて作られたと見られ、長方形の板の先頭部を尖らせており、すでに現在と同じ五角形をしていた。 明治時代に入り、もっぱら実用品であった駒が工芸価値のあるものとなった。東京では駒師の初代豊島龍山が、盛り上げ駒の手法を確立し、それまでに使われていたいくつもの書体をまとめ、洗練させた。「斑」や「杢」を駒木地に生かしたのも、初代龍山である。 現在、駒を9割以上生産している山形県天童市では、江戸時代末の元治二年(1865年)に吉田家から伝わったとする資料が有力視されていた〔佐々木忠蔵『勤王家・吉田大八先生』1933年〕が、その後の研究では18世紀には将棋駒の製造方法が天童に伝わっていたと見られている〔天童市将棋資料館『天童の将棋駒と全国遺跡出土駒 —将棋駒のルーツを探る—』2003年〕。古い天童駒は付近の山から切り出した雑木を斧で割った木地に独自の草書体字が漆書きされたものであり、不揃いで庶民向けの低価格品が主であった。明治時代中期には東京から楷書体の駒が伝わり、大正時代には彫り駒の手法が取り入れられるようになり、また木地は機械で揃ったものが作られるようになって現在に至っている。現在は木地にスタンプで印字する押し駒や、機械彫りの低価格の彫駒が普及したため、伝統的な天童書体の書き駒の職人は少なくなっている。1996年、天童の将棋駒は伝統工芸品に指定された。 近年では漆の代用品としてインドやブラジルのカシュー塗料が用いられることがある〔『日本将棋用語事典』p.41〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「駒 (将棋)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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