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伊賀国分寺跡[いがこくぶんじあと]
伊賀国分寺跡(いがこくぶんじあと)は、三重県伊賀市西明寺にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、伊賀国国分僧寺の寺院跡にあたる。本項では伊賀国分尼寺跡と見られる長楽山廃寺跡(国の史跡)についても解説する。 == 概要 == 伊賀市市街地の南東部、標高約170メートルほどの台地上に位置する古代寺院跡である。東方約200メートルには、国分尼寺跡とされる長楽山廃寺跡が東西に並ぶ形で建立されている。 文献では、古くは延長5年(927年)成立の『延喜式』に国分寺料として5,000束があると見える。また『貞信公記』天暦2年(948年)2月16日条に「国分寺毘沙門金剛力士等振鳴」とあるほか、天喜4年(1056年)2月23日付の「藤原実遠所領譲状」、保安3年(1122年)の「名張郡収納所切符」などにそれぞれ記載が確認されている。中世以後は寺勢が衰退して国分寺の所在も分からなくなったと見られ、当地は「長者屋敷」と称され長者屋敷伝説が伝わっていた。近世初期には国分寺跡は三田廃寺跡(伊賀市三田)に比定されており、西条村(伊賀市西条)にその後継を称する国分寺が存在したが、享保7年(1722年)からは坂之下村(伊賀市坂之下)の楽音寺が国分寺を称するようになり、現在も同地に小堂を残している()。なお国分尼寺に関しては、近世には法花村(伊賀市法花)の法華寺が後継とされていた。 当地が国分寺跡と注目されるようになったのは大正期に入ってからで、その頃の調査により寺域周囲の土塁や伽藍の基壇が認められ、それを受けて1923年(大正12年)3月に国の史跡に指定された。しかし1944年(昭和19年)9月に海軍飛行場用地のため史跡指定は解除され、掩体壕建設によって遺構の多くが損なわれた。戦後の1948年(昭和23年)1月に国の史跡に再指定され、1961年(昭和36年)2月には指定範囲が変更されて現在に至っている〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊賀国分寺跡」の詳細全文を読む
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