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伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - 2001年10月29日)は、日本の映画監督である〔''伊賀山正光''、日本映画情報システム、文化庁、2012年4月26日閲覧。〕〔''伊賀山正光''、日本映画データベース、2012年4月26日閲覧。〕〔''伊賀山正光''、キネマ旬報映画データベース、2012年4月26日閲覧。〕〔''伊賀山正光''、映像作品データベース、武蔵野美術大学、2012年4月26日閲覧。〕〔''伊賀山正徳 (正光)''、アテネ・フランセ文化センター、2012年4月26日閲覧。〕。本名・旧名伊賀山 正徳(いがやま まさのり)〔〔。 == 人物・来歴 == 1905年(明治38年)8月25日、秋田県秋田市保戸野表鉄砲町 (現在の同市保戸野鉄砲町)に生まれる〔〔。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業、東京に移り、明治大学に入学する〔。日本大学法文学部美学科(現在の日本大学藝術学部)に移籍し、在学中の1925年(大正14年)、国際活映巣鴨撮影所が製作した内田吐夢監督の『義血』で助監督を務めている〔〔。同作の撮影技師は円谷英二であり、同作は同年2月6日に公開されている〔。1927年(昭和2年)、同学の卒業と同時に、タカマツ・アズマプロダクション吾嬬撮影所に助監督として入社したが、同社は同年後半に活動を停止しており、翌1928年(昭和3年)には、京都の勝見庸太郎プロダクションに移籍した〔。1929年(昭和4年)1月10日に公開された勝見庸太郎監督・主演の映画『血の船』で、脚本家としてクレジットされている〔。 1930年(昭和5年)早々に勝見プロは活動を停止しており、同年、内田吐夢の紹介で日活太秦撮影所に移籍する〔〔。日活では、内田のほか村田実、阿部豊、田坂具隆、渡辺邦男らに師事、同年後半から、1934年(昭和9年)に佃血秋オリジナル脚本を得て『野の光』で監督として一本立ちするまで、伊奈精一の専属助監督を務めた〔〔。同年、現代劇部の移転にともない、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する〔〔。1942年(昭和17年)1月27日、日活の製作部門が他社と統合されて大日本映画製作(大映)が発足すると、そのまま日活多摩川撮影所、改め「大映東京第二撮影所」に勤務する〔〔。1945年(昭和20年)1月、同社を離れ、同年4月には朝日映画社に入社、海軍省恤兵映画製作班員となる〔。 第二次世界大戦の終戦後、大映東京撮影所に復帰して企画者になり、1947年(昭和22年)2月4日には、伊賀山がプロデュースした西村元男の監督デビュー作『花嫁の正体』が公開される〔〔。1949年(昭和24年)2月7日に公開された吉村廉監督の『検事と女看守』に企画者としてクレジットされたのを最後に、今村貞夫率いるラジオ映画に製作部長として迎えられ、自らも『海魔陸を行く』を監督、翌1950年(昭和25年)1月17日、東京映画配給(現在の東映)が配給して同作は公開された〔〔。翌1951年(昭和26年)には、篠勝三率いる新映画で、太泉映画のスタジオ(現在の東映東京撮影所)を使用して、折原哲子を主演に『湯の町情話』および『紅涙草』を監督し、いずれも大映が配給して、同年に公開されている〔。同年に設立された東映に、翌1952年(昭和27年)に監督契約を結び、ひきつづき名を改めた東映東京撮影所で、ひきつづき折原を主役に『母の罪』を監督している〔〔。 1957年(昭和32年)1月29日に公開された『若獅子大名』から、それまで本名を名乗っていたのを「伊賀山 正光」と改名する〔。1963年(昭和38年)6月2日に公開された畠山みどりの主演映画『恋は神代の昔から』を最後に、劇場用映画を離れた〔〔。 伊賀山が最初にテレビ映画に取り組んだのは、1962年(昭和37年)3月7日に放映された『特別機動捜査隊』の第20話『罠』であった〔''伊賀山正光''、テレビドラマデータベース、2012年4月26日閲覧。〕。以降、1982年(昭和57年)に放映された『文吾捕物帳』(製作三船プロダクション)の第23話まで、テレビ映画一筋の職人監督として働いた〔。 2001年(平成13年)10月29日、死去した。満96歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊賀山正光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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