|
的矢湾(まとやわん)は三重県志摩半島の東側にある東西10kmほどの細長い湾。志摩市と鳥羽市に属する。 == 概要 == カキや真珠貝の養殖が盛んである。周辺は典型的なリアス式海岸で的矢湾は南にある英虞湾と同じく溺れ谷である。また、景色の美しさなどから観光地となっており、沿岸にはテーマパーク志摩スペイン村をはじめ、ホテルやゴルフ場が多い。 入口は南の安乗崎と北の菅崎にはさまれ〔人文社観光と旅編集部 編(1974):48ページ〕幅2kmほどある。その内側には渡鹿野島がある。中央部は幅わずか100mほどに狭窄し、的矢湾大橋〔 詳しくはパールロードの記事を参照。〕が架けられ、南側の丘に志摩スペイン村がある。面積は8km2、海岸線長は40kmである〔『的矢のあゆみ』(木下善寿著、的矢のあゆみ刊行会、1967年11月20日、26頁)〕。 == 伊雑ノ浦 == 的矢湾の奥はまた広い内湾となり、伊雑ノ浦(いぞうのうら)〔 国土地理院発行の地形図には「いぞのうら」とルビが振られている。〕と呼ばれる。最も一般的な表記は「伊雑ノ浦」であるが、文献によっては伊雑の浦・伊雑浦〔『磯部町史』(上下巻とも)は「伊雑浦」の表記で統一されている。〕も用いられる。一見すると湖のようであり、波静かな入り江である〔。西岸を近鉄志摩線が走り、志摩磯部駅と穴川駅がある。 ヒトエグサ(あおさ)やウナギの養殖が行われている。 1970年代にはカモの狩猟場としても知られていた〔。 === 伊雑ノ浦淡水湖化計画 === 志摩市には大河川が存在せず、長年水不足に悩まされてきた。そこで、伊雑ノ浦を淡水湖化して灌漑をしようとする計画が持ち上がった。この計画の主体は農林省(当時)であり〔『神路川 磯部小史』(中野順蔵、三光社装幀印刷、昭和56年4月、153ページ)〕、正式名称は「志摩総合開発計画」。 これに対して、1956年(昭和31年)に伊雑ノ浦や的矢湾であおさやカキの養殖に従事していた漁業者らは、漁業への悪影響を理由に猛反発し、的矢かきの生みの親である佐藤忠勇の研究データを添えた陳情書を提出し〔、計画は中止された。 反対運動の際に提出された陳情書は、志摩市歴史民俗資料館に保存、展示されている。 代替の水源として、1960年(昭和35年)に磯部町恵利原の神路川にダムを建設する計画がなされ、1968年(昭和43年)には恵利原ダムが、1974年(昭和48年)には神路ダムが完成した。なお、現在ではこれでも水が不足するため、南勢水道の多気浄水場(多気郡多気町)から一部送水を受けている。 Matoya Bay 01.jpg|あおさ(ヒトエグサ)養殖中の的矢湾 Matoya Bay.JPG|的矢湾大橋から望む的矢湾 Vent Vert Iseshima Royal Vent Vert Shimamatoyawan and Matoya Bay Bridge.JPG|的矢湾大橋、東急リゾートマンションのヴァンベール伊勢志摩とロイヤルヴァンベール志摩的矢湾 Izounoura.JPG|横山展望台から望む伊雑ノ浦 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「的矢湾」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Matoya Bay 」があります。 スポンサード リンク
|