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伍朝枢[ご ちょうすう]
伍 朝枢(ご ちょうすう)は、清末民初の外交官・政治家。北京政府・国民政府で主に外交の要職に就いた。字は梯雲。祖籍は広東省広州府新会県。父は、やはり清末民初の政治家である伍廷芳。 == 事績 ==
=== パリ講和会議の代表に === 1897年(光緒23年)、父に従って伍朝枢も渡米し、ワシントンで初等、中等教育を受けた。1905年(光緒31年)に帰国し、広東省で役人となる。1908年(光緒34年)、官費によりイギリスに留学して、ロンドン大学で法律を専攻する。卒業後はケンブリッジ大学大学院で、弁護士資格を取得した。 1912年(民国元年)に帰国し、同年5月に湖北都督府外交司長に就任する。同年9月、北京入りして外交部弁理条約事宜に異動した。翌年、広東選出の国会議員となり、国民党の憲法起草員となった。民国4年(1915年)、国務院参議兼外交部参事となる。1916年(民国5年)1月、袁世凱の皇帝即位に反発して、辞職、帰郷した。 同年6月の袁世凱の死去後に、伍朝枢は北京政府に復帰し、やはり外交部参事をつとめた。1917年(民国6年)の府院の争いでは、総統黎元洪を支持して、国務総理段祺瑞と対立する。9月、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、伍も南下してこれに参加した。孫文の広州軍政府においては、父の伍廷芳が外交部長、伍朝枢は外交部次長を務めるという異例の人事となっている。同年12月、王正廷らと共に南方代表としてパリ講和会議に出席し、ヴェルサイユ条約調印拒否に主導的な役割を果たした。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伍朝枢」の詳細全文を読む
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