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伎楽面(ぎがくめん)は、古代日本で演じられた仮面舞踊劇である伎楽に用いられた仮面。世界最古に属する面としてその歴史的意義は大きい。また近年、新伎楽に使用するため復興された伎楽面もある。 == 概要 == 伎楽は呉(中国江南地方)から日本へ伝えられた仮面舞踊劇であり、滑稽な所作を伴うパントマイム(無言劇)であった。その起源については、使用される仮面の民族的特徴に中国人よりはアーリア系の要素が色濃くみられることから、西域(中央アジア)方面で発祥し、シルクロードを経て中国江南地方で完成されたものと推定されている。〔(児島、1999)、pp.86 - 87〕 日本への伝来については、『新撰姓氏録』(弘仁6年・815年成立)に、欽明朝(539 - 572年)に呉国王の血統を引く和薬使主(やまとのくすしのおみ)が伎楽の調度一式を日本へもたらしたとの記事があるが、この時に舞踊も同時に伝えられたのかどうかは定かでない。一般的には、次の『日本書紀』の推古天皇20年(612年)の記事が、日本へ伎楽が伝えられた最初の事例とみなされている。〔(児島、1999)、pp.86 - 87〕 :百済人味摩之(くだらひとみまし)帰化(まうきおもむ)けり、曰はく、「呉に学びて伎楽(くれがく)の舞を得たり」、即ち桜井に安置(はべ)らしめて少年(わらはべ)を集へて、伎楽の舞を習はしむ(百済からの帰化人である味摩之が、呉(中国南部)で伎楽の舞を学んだと言うので、大和の桜井に少年らを集めて伎楽の舞を習得させた) 『書紀』の朱鳥元年(686年)4月壬午条には「新羅の客等(まらうとら)に饗(あへ)たまはむが為に、川原寺の伎楽を筑紫に運べり」(新羅からの客人をもてなすために、川原寺の伎楽(舞人、装束、楽器等)を筑紫に運んだ)とあり、この頃、飛鳥の川原寺で伎楽が行われていたことがうかがえる。〔(児島、1999)、pp.86 - 87〕 『西大寺資材流記帳』によると、伎楽には14種23面の仮面が用いられた。仮面の名称は登場順に、治道(ちどう)、師子(しし)、師子児(ししこ)、呉公(ごこう)、金剛(こんごう)、迦楼羅(かるら)、呉女(ごじょ)、崑崙(こんろん)、力士(りきし)、婆羅門(ばらもん)、太孤父(たいこふ)、太孤児(たいこじ)、酔胡王(すいこおう)、酔胡従(すいこじゅう)である。このうち、師子児と太孤児がそれぞれ2面、酔胡従が8面で、計23面が舞台で用いられることになる。〔(成瀬、1999)、pp.84 - 85〕 伎楽は平安時代には衰退し廃絶してしまったため、その所作やストーリーの詳細は不明である。天福元年(1232年)、興福寺の楽人であった狛近真が著した『教訓抄』によると、歯をむき出し、獣のような容貌の崑崙が卑猥な所作をしながら呉女に懸想するが、力士によって追い払われるといった、滑稽な筋のものであった。〔(児島、1999)、pp.92 - 93〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伎楽面」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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