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郁久閭伏図 郁久閭 伏図(漢音:いくきゅうりょ ふくと、拼音:Yùjiŭlǘ Fútú、? - 508年)は、柔然の可汗。那蓋の子。可汗号は他汗可汗(たかんかがん)といい、“緒可汗”という意味である。 == 生涯 == 太安15年(506年)、那蓋が死去すると、子の伏図が立って、他汗可汗と号し、称元して始平元年とした。10月、伏図は紇奚勿六跋を朝献の使者として北魏に派遣し、和親を結ぶことを願い出た。しかし、宣武帝は使者に回答をしなかった。 始平2年(507年)12月、柔然隷属下の高車人の他莫孤は、部衆を率いて北魏に投降した。 始平3年(508年)9月、伏図は再び紇奚勿六跋を北魏に派遣して、一封の函書を奉じ、また貂の皮衣を献上させた。しかし、宣武帝は受け取らず、先年の説得を繰り返して帰国させた。この頃、伏図は高車王の弥俄突と蒲類海(バリコン湖)北で戦い、これを破る。しかし、北魏龍驤将軍の孟威がやってくることを知ると、伏図は怖れて遁走し、これに乗じて反撃してきた弥俄突に殺害された。柔然では伏図の子の醜奴が即位し、豆羅伏抜豆伐可汗と号した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「郁久閭伏図」の詳細全文を読む
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