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伐休王 : ウィキペディア日本語版
伐休尼師今[ばっきゅう にしきん]

伐休尼師今(ばっきゅう にしきん、生年不詳 - 196年4月)は、新羅の第9代の王(在位:184年 - 196年)であり、姓は昔。父は第4代の脱解尼師今の子の仇鄒角干、母は金氏の只珍内礼夫人。
==治世==
184年3月に先代の阿達羅尼師今が死去したときに嗣子がいなかったため〔『三国史記』新羅本紀・神徳王即位前紀では、第51代の神徳王を阿達羅尼師今の遠孫としている。このことについては神話の造作であったり王統系譜の造作であり、史実として論じるべき問題ではないと指摘されている。(→井上訳注1980)〕、国人に推挙されて即位した。185年に初めて軍主の制度を設け、波珍飡(4等官)の金仇道〔金仇道は金閼智の6世孫であり、後の13代味鄒尼師今の父に当たる。〕と一吉飡(7等官)の仇須兮を任命し、召文国(慶尚北道義城郡)を討伐させた。この後、百済との交戦が激化し、188年2月には百済から母山城(忠清北道鎮川郡)〔母山城については他に忠清北道陰城郡とする説、全羅北道南原市雲峰邑とする説もある。〕を攻められ、金仇道がこれを撃退した。189年には金仇道が狗壌(忠清北道沃川郡)で百済と戦って勝利を収めた。さらに190年8月、百済は円山郷(慶尚北道醴泉郡)〔円山郷については忠清北道鎮川郡とする説もある。また、新羅時代には地方名に○○郷とする事例はほとんどない、とされる。(→井上訳注1980)〕に攻め入り、缶谷城を包囲した。このときに金仇道は騎兵500を率いて反撃し、蛙山まで出撃したが百済軍に敗れることとなった。〔この敗戦の責任を問われ、金仇道は軍主の地位を退けられ、缶谷城の城主とさせられた。もともと城主というのは地方の有力者を指すものであったが、中央から城主として赴任する例は稀であるとされる(→井上訳注1980)〕。
193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入したという。
在位13年にして196年4月に死去した。埋葬地は伝わらない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Beolhyu of Silla 」があります。



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