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会津 玄察 (あいづ げんさつ、慶長16年(1611年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、江戸時代前期の人物。 島原の乱における一揆勢の指導者のひとり。 大矢野玄察〔『嶋原記』『天草合戦記』より。〕、天草玄札〔『山田右衛門作以言語記』『寛永平塞録』『天草騒動』等より。〕、大矢野源兵衛〔『山田右衛門作口書』より。〕とも。玄察は号で、他に玄札、見察〔『水野家島原記』より。〕。 == 概要 == 島原の乱以前の経歴は不明だが、乱当時幕府軍に捕らえられていた渡辺小左衛門は、玄察は医師であり、以前松倉氏に仕えていたと証言している。 浪人として島原の乱に参加し、一揆勢において武者奉行〔『耶蘇天誅記』『山田右衛門作以言語記』『寛永平塞録』『嶋原記』『天草合戦記』等多数の史料より。〕・徒士大将〔『天草騒動』より。〕・旗奉行〔『天草騒動』より。〕・二ノ丸出丸番頭〔『籠城刻々日記』、「立花・松浦絵図」より。〕の肩書きを持つなど重要な地位にあったことがうかがえる。 最期は詳細不明だが、原城落城時に戦死したと思われる〔『天草騒動』より。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「会津玄察」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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