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会田吉男[あいだ よしお]
會田 吉男(あいだ よしお、1910年 - 1953年7月11日)は、日本の撮影技師である〔貴田、p.13-15.〕。原節子の実の兄としても知られる〔〔鈴木英夫〈その3〉逢沢譲 、木全公彦、マーメイドフィルム、2012年4月24日閲覧。〕。新字体表記は会田 吉男。 == 人物・来歴 == 1910年(明治43年)、会田藤之助・ナミ夫妻の次男として、神奈川県に生まれる〔。姉の光代(次女)は日活大将軍撮影所での女優を経て、映画監督の熊谷久虎の妻になり、姉の喜代子(三女)は銀行員と結婚して生まれた子がのちに映画監督の木下亮となり、妹の律子(四女)は映画監督の番匠義彰の妻となったがのちに離婚、末妹の昌江(五女)は、のちに女優・原節子となる〔〔。 1941年(昭和16年)、母ナミ、死去〔。 1947年(昭和22年)、東宝が製作した映画『春の饗宴』の撮影技師として、瀬川順一と共同でクレジットされ〔春の饗宴 、日本映画データベース、2012年4月24日閲覧。〕、1949年(昭和24年)、義兄の熊谷久虎が代表を務める製作会社芸研プロダクションの設立第1作『殿様ホテル』で、劇場用長篇劇映画の撮影技師として一本立ちする〔殿様ホテル 、キネマ旬報映画データベース、2012年4月24日閲覧。〕。 1953年(昭和28年)7月10日の19時ころ、義兄の熊谷久虎が監督、実妹の原節子が主演する映画『白魚』の撮影技師として、静岡県駿東郡御殿場町(現在の御殿場市)の御殿場駅構内でのロケーション撮影におけるセッティング中、撮影助手とともに列車に轢かれ、同町内の北駿病院に運ばれたが、翌11日13時15分に死去した〔。満43歳没。会田の遺作となった同作は完成し、同年8月5日に公開された。父藤之助が死去したのは、3年後の1956年(昭和31年)であった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「会田吉男」の詳細全文を読む
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