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住吉の長屋(すみよしのながや)は、建築家・安藤忠雄の初期の代表的住宅建築。 == 概要 == 1976年(昭和51年)2月竣工、大阪市住吉区の三軒長屋の真ん中の1軒を切り取り、中央の三分の一を中庭とした鉄筋コンクリート造りの小住宅。総工費予算は解体費を含め1000万円。外に面しては採光目的の窓を設けず、採光は中庭からだけに頼っている。玄関から内部に入ると居間があり、台所や2階に行くには中庭を通らねばならない。限られた予算と敷地という厳しい条件の中で、建蔽率などの多くの条件をクリアしながら通風や採光を確保し、豊かな空間を創作するため機能性や便利さを犠牲にしてまで、真に必要な生活の質を究極にまで突き詰め〔住吉の長屋(東邸)/安藤忠雄 ]〕、機能性や連続性に絶対的価値をおくことに疑問を持っていたという安藤の渾身の表現であり、関西に根付いた長屋の住み方を現代風にアレンジしたものとして高く評価される一方で、「使いにくい」、「雨の日に傘を差さないとトイレに行けない」などの当然起こりうるべき非難もあった。また、航空写真、もしくは背面から建築物を見ると、壁面が一部セットバックしており、一般に公開されている、綺麗な長方形の平面図は一部フィクションである事がわかる。 (一連の非難については、UT OCW Podcasts -安藤忠雄『建築をつくる、都市をつくる』その2- において安藤自身が述べていることが確認できる。また、現在も施主との信頼関係があるらしく、冬の寒さを訴える施主に対して「アスレチックに行け」と言っているとのこと) 施主は電通神戸支店社員で、隣席が作家の新井満であった。新井は施主に向かって「ゲリラなんてそんな変わった人、やめとき」といったそうだが、のちに安藤自身が確かめたときにはそんなことは言っていないと答えた。施主は雑誌に掲載されていた「冨島邸」を見て安藤に依頼した。当初、施主はスペイン風を希望していた。三軒長屋の真ん中であったことから解体時に倒壊の心配があった。安藤自身、後に知ることになるが、軟弱な地盤であったため、基礎をさわることで建物がずれる可能性があり、実際に基礎を切ったために少しずれたが、倒壊は免れた。 施工は、まこと建設株式会社(大阪市西区)によるもの。 2011年、安藤は自著『安藤忠雄 住宅』のなかで、施主がいまだにうまく住みこなしていることに驚いていると述べた。「そろそろ中庭に屋根でもかけたら」とすすめたことがあるが、「もうここまで来たら住み続けます」と一蹴された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「住吉の長屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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