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住吉如慶[すみよし じょけい]
住吉 如慶(すみよし じょけい、慶長4年(1599年) - 寛文10年6月2日(1670年7月18日))は、江戸時代前期の大和絵の絵師。江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖。泉州・堺出身。幼名は千夜叉丸、長十郎(長重麿)。名は広通、広道、或いは忠俊。通称は内記。旧姓は土佐。 == 伝記 == 土佐光吉の子とも門弟とも言われるが、後者のほうが可能性が高い。光吉ついで土佐光則に学び、土佐光陳(みつひさ)と称した。光則が上洛するのに先んじて、光陳は京都に出ていて、内記と改称。寛永2年(1625年)南海坊天海の推挙で、「東照宮縁起絵巻」を制作するため、名目上光則の弟分として関東に下る。如慶は、日光・和歌山・岡山・川越喜多院の各東照宮に奉納された都合4点の「東照宮縁起絵巻」を制作しており(うち和歌山・岡山本が現存)、こうした画事を通じて幕府との関係が深まり、後の御用絵師登用に繋がったと見られる。しかし、この頃はまだ主として京都で活躍したらしく、承応3年(1654年)からの内裏造営に伴う障壁画制作では、狩野探幽ら狩野派の絵師たち、土佐光起、海北友雪らと共に参加している。 寛文元年(1661年)妙法院門跡尭然法親王のもとで剃髪、如慶と号し、法橋さらに法眼に叙せられる〔廬山寺の墓石には「法橋如慶」と刻されていることから、これは「法眼具慶」と標された具慶との混同で、如慶自身は法眼にならなかったとする説もある(土居次義 「住吉如慶についての一考察」、『花鳥山水の美 桃山 江戸美術の系譜』収録、160頁 ISBN 4-7638-0304-2)〕。翌年、後西天皇の勅命により土佐を改め住吉と改め、住吉家を立てることになった。これは、摂州住吉絵所が鎌倉時代中期の住吉慶恩(慶忍)一代で絶えたのを、かねてより後水尾天皇が遺憾としており、この意を受けた後西天皇が如慶をその人に当てた事による。このため如慶は、住吉家中興の祖とよばれる。同年、「年中行事絵巻」を模写。享年72。墓は京都・廬山寺と東京・護国院。戒名は法眼如慶月江廣通居士。長男の住吉具慶が跡を継ぎ、他の息子に画僧となった鶴洲霊翯がいる。 画風は土佐風の細密画法に、鎌倉時代の絵師高階隆兼(「春日権現霊験記絵」の作者)に学んだと見られる構築的な画面構成や濃密な色彩を加味し独自の画風を切り開いた。一方、漢画に学んだあとが認められる作品も存在し、また「菊花写生図巻」(個人蔵)のように、客観的な観察と写実的描写への意欲を示す作品もある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「住吉如慶」の詳細全文を読む
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