|
佐々木原 正夫(ささきばら まさお、1921年 - 2005年)は、第二次世界大戦時における大日本帝国海軍のエースパイロット。甲飛4期。最終階級は海軍少尉。 == 略歴 == 青森県出身。1935年(昭和10年)4月、静岡県立沼津中学校に入学。 後輩にのちに回天特攻隊隊員となる和田稔がいる。 在学中の1938年(昭和13年)、クラスメートらとともに陸上競技部内に「器械体操倶楽部」を立ち上げた〔静岡新聞2002年2月8日掲載〕 。 卒業後の1939年(昭和14年)4月、甲種飛行予科練習生4期生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。予科練での一年半の基礎教育を終えて飛行練習生となり、戦闘機搭乗員としての教程を経て、開戦直前の1941年(昭和16年)9月、空母「翔鶴」乗組。真珠湾攻撃では母艦の上空直衛に任じ、その後、ラバウル攻略、セイロン沖海戦に参加。1942年(昭和17年)5月の珊瑚海海戦では敵機4機を撃墜した。 同年6月、臨時「隼鷹」乗組としてアリューシャン方面の戦いに参加、その後、「翔鶴」に復帰して南方に転戦し、同年のうちに第二次ソロモン海戦、ガダルカナル島の戦い、南太平洋海戦と数多くの戦闘を経験した。 昭和17年11月1日、上等飛行兵曹に昇進。一度内地に帰還したものの空母「瑞鶴」に転勤。再び南方に派遣された。 1943年(昭和18年)2月、ガダルカナル島撤退作戦支援のため輸送船団上空直衛中、単機になったとき、運悪く攻撃に来た敵艦上機約30機と遭遇。2機を撃墜したものの被弾し、海上に不時着水し、そのときの衝撃で負傷する。半年間の入院生活ののち、戦闘機の空輸部隊である一〇〇一空に転勤し、戦闘機のテスト飛行、戦地への空輸に任じる。 1945年(昭和20年)、紫電改を主力とする第三四三海軍航空隊に転じ、終戦を迎えた。終戦までの撃墜スコアは12機。 戦後は森永製菓に勤務、零戦搭乗員会事務局長も務めた。2005年死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木原正夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|