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佐々木吉朗 : ウィキペディア日本語版
佐々木吉郎[ささき きちろう]

佐々木 吉郎(ささき きちろう、1940年3月8日 - 2008年12月21日)は、秋田県出身のプロ野球選手投手)、野球指導者。
史上8人目の完全試合達成者。
== 来歴・人物 ==
秋田市立秋田商業高等学校では当初捕手だったが、試合中に突然登板を命じられ以来投手になる。1957年夏の甲子園県予選で優勝、奥羽大会に進出するが八戸高に惜敗し、甲子園には出場できなかった。日本石油野球部(現:JX-ENEOS野球部)を経て1962年大洋ホエールズに入団。
日石時代は都市対抗野球で活躍し、1961年から2年連続優勝、1962年には橋戸賞を受賞するなど社会人野球の実力者として期待されたが、無理な練習のため肘に持病を持ってしまいプロでは大成できなかった。主に中継ぎローテーションの谷間での先発で起用され、比較的防御率が良く当時の三原脩監督に重用された。
1964年9月23日巨人戦で、王貞治から1シーズン本塁打日本記録〔2013年ウラディミール・バレンティンヤクルト)が更新した。〕の第55号を打たれている。
1966年5月1日広島戦で、1960年島田源太郎に次ぐ球団史上2人目の完全試合を達成している。実は本当の先発は左腕の小野正一であり、佐々木は広島の右打者を交代させる為の「アテ馬」で1回終了時点で交代の予定だった。しかし当時の別所毅彦投手コーチから「ヒットを1本も打たれていないから打たれるまで投げてこい」と言われ、最後まで1本のヒットも打たれることなく完投し完全試合を達成した。
1969年に引退後は、社会人野球TDKのコーチ・監督を歴任。野球界から引退した後は東京都中央区で割烹料理の店を営んでいたという。
2008年12月21日敗血症のため東京都内の病院で亡くなった〔元大洋の佐々木吉郎氏が死去 スポーツニッポン 2008年12月21日閲覧〕。。
秋田県大仙市にある「かみおか嶽雄館 」の「野球ミュージアム」では〔かみおか嶽雄館 ~野球資料展示~ 秋田こまち路~田沢湖・角館・大仙・美郷観光ブログ~(秋田県仙北地域振興局地域企画課公式ブログ)〕、完全試合達成時の写真が展示されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐々木吉郎」の詳細全文を読む



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