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佐々木等 : ウィキペディア日本語版
佐々木等[ささき ひとし]

佐々木 等(ささき ひとし、1891年- 1982年7月23日)は、福島県出身のサッカー選手・指導者、大学教授。サッカー日本代表の監督としては、歴代2代目(選手兼任監督でもあった)に当たる。
== 経歴 ==
1891年福島県相馬地方にて、貧農の家に四男(11人きょうだいの下から2番目)として生まれた〔 〕。小学校卒業後、東京に出て丁稚奉公するも長続きせず、転々と奉公先を変え、結局帰郷。乙種農学校に入るも程なくして退学し、新設された准教員養成所に入ったが、正規の教員になるため福島県師範学校に転じた〔。福島師範学校卒業後小学校教員となるも、知人の誘いで1915年9月東京高等師範学校特科(体育科)の第1期生として入学した。
スポーツ歴としては、福島師範学校時代に始めた長距離走で活躍。東京高師に入学した後は同校の蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に入り、サッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。1917年東京で開かれた第3回極東選手権競技大会では、25マイルマラソン(現在のフルマラソンに相当)、10マイル短縮マラソン(現在のハーフマラソンに相当)、そしてサッカーの選手として出場した〔。サッカー日本代表初の国際試合(国際Aマッチではない)となった中華民国戦(1917年5月9日。芝浦運動場)にもハーフバックの選手として出場した。尚、東京高師在学中には佐倉中学(現・千葉県立佐倉高等学校)でサッカーの指導をした記録が残っている。東京高師卒業後は、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)や東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)の教員を務めた〔。
1921年上海で開かれた第4回極東選手権では、選手兼任監督として出場〔〔“大正十年には、第五回極東大会が上海で行われるというので私は、日本のサッカーチームの監督という名義で約一ヶ月出張したことがある。”と『学校体育』1953年3月号p.36に記している。〕。しかし、5月30日フィリピンとの試合で1-3、6月1日中華民国との試合で0-4と、2連敗(最下位〔フィリピン、中華民国〈優勝〉とのリーグ戦で3位〕)に終わった。
1924年東京高師に体育研究所が設立されると、遊戯部長になり球技専門の講師となる。1926年学校体操教授要目改正に際して、当時としては異例の35歳で教授に昇格し〔、さらに文部省調査委員となり球技の海外からの導入に尽力した。アムステルダムオリンピック1928年)の際には、文部省留学生となり欧米を歴訪した。
その後、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学。1935~42年。1938年に同校の体育課設立に関わった)、中華民国国立南京中央大学(現・南京大学。1943年~45年3月。)、宇都宮師範学校(現・宇都宮大学教育学部。同大学昇格時にも在籍した。1945年4月~。)など様々な学校の教授を歴任し、新設の福島大学の教育学部体育学科に招聘された。68歳で福島大学を定年退職し、その後は71歳で定年退職するまで中京大学で教鞭を執り、体育学部長も務めた〔 〕。さらにその後も日本女子体育大学で教鞭を執った〔
1982年7月23日東京都杉並区で肺血栓により91歳で死去した〔朝日新聞夕刊、1982年7月24日、2014年7月9日閲覧〕。
30を超える著書があり、その中には『フットボール』(戦前のサッカー専門書としてはベストセラーになった)もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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