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佐々木 累(ささき るい)は、江戸時代前期(17世紀)に実在した日本の剣術家である〔''佐々木累''、朝日日本歴史人物事典、コトバンク、2012年8月1日閲覧。〕〔''佐々木累''、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年8月1日閲覧。〕〔実録、p.53-55.〕。「異装の女性剣術家」として知られる〔〔〔。 == 人物・来歴 == 生年月日不明、17世紀に下総国古河藩(現在の茨城県古河市)に生まれる〔〔〔。父は同藩主土井利勝に仕える剣術家・佐々木武太夫であり、この父に武道一般をすべて伝授される〔〔〔。累に男兄弟がないため、婿をとろうとしたがうまくゆかぬまま、武太夫は病死、佐々木家の家名は父の代で断絶する〔〔〔。 累は浪人となり、江戸市中に出て、武蔵国豊島郡浅草聖天町(現在の東京都台東区浅草)に家を借り、そこで武芸指南を始める〔〔〔。累の武道教授は評判になるとともに、その外出時の服装が、黒縮緬の羽織に佐々木氏の「四つ目結」の紋付、屋敷風の笄分けの髪型、大小を二刀差しにしていたので、それが「異装・異風」であるとして、評判にもなった〔〔〔。当時、江戸市中に横行していた「旗本奴」による無頼行為が累に及んだことがあり、「白柄組」と渡り合ったという話が残っている〔〔。 石谷左近将監(石谷貞清)が北町奉行を務めていたころ(1650年 - 1659年)、累は石谷に呼び出され、武家の娘であれば違法ではないが「異装・異風」はいかがなものかと問われ〔、その目的は土井利勝の家臣であった父の意志を継ぎ、武勇の士を夫に持ちたいためであって、旗本奴・町奴のように狼藉を企てているわけではないと堂々と申し述べ、認められた〔〔〔。この件は、南町奉行・神尾備前守(神尾元勝、1640年 - 1661年在任)にも伝わり〔、さらには当時大老であった土井利勝の耳にも届いた、とされる〔〔〔。利勝は1644年8月12日(寛永21年7月10日)に死去しており、伝承する北町奉行の名が異なる時期の話か、いずれにしても利勝が動き、家臣の小杉重左衛門の次男、小杉九十九を婿に迎え、佐々木家は再興した〔〔〔。 没年月日・没地ともに不詳である〔〔。 池波正太郎が1969年(昭和44年)に上梓した短篇小説集『剣客群像』(桃源社)にある『妙音記』には、主人公として、女剣士の佐々木留伊、『剣客商売』には、男装の女武芸者・佐々木三冬が登場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木累」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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