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佐々木貞宗 : ウィキペディア日本語版
佐々木貞宗[ささき さだむね]
佐々木 貞宗(ささき さだむね〔『寛政重修諸家譜』より。〕、弘安10年(1287年)〔『寛政重修諸家譜』には「弘安十年生る」と明記されており、享年を基に没年から算出してもこれに一致する。〕 - 嘉元3年5月8日1305年5月31日)〔〔『尊卑分脈』より。〕〔『系図纂要』より。〕)は鎌倉時代中後期の武将鎌倉幕府の有力御家人佐々木氏支流京極氏の当主で、京極 貞宗(きょうごく さだむね)とも呼ばれる。通称は三郎左衛門尉〔〔、備前掃部助〔細川、2000年、p.302 脚注(8)。〕。
佐々木宗綱の4男で祐信(すけのぶ)、時綱(ときつな)の同母弟(母は佐伯左衛門尉頼綱の娘)〔。北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時より偏諱を受けて〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.21)。紺戸によれば、当初嫡子であったと考えられる兄・時綱も得宗家(時宗または貞時)から「時」の字を受けたようである。〕貞宗と名乗る。
永仁5年(1297年9月20日に父が死去〔〔〔、長兄の祐信は父の意に叶わなかったとされ〔〔〔、次兄の時綱は父に先だって17歳で早世していた〔〔〔ため、家督を継ぐ〔。
その後、嘉元3年(1305年)5月8日に19歳で死去〔。死因は同年に起きた嘉元の乱北条宗方の討手として参戦した際の戦死とされている〔『鎌倉年代記裏書』および『武家年代記裏書』の嘉元3年条に戦死者の一人として挙げられている(細川、2000年、p.302 脚注(8))。尚、細川は系図類の(五月)「」日は「」日の誤記と推測している(同前)。また、この戦いでは同族の佐々木時清(貞宗の姉妹の夫である佐々木宗清の父)も戦死している(安田、1990年、p.242 「佐々木時清」の項(執筆:勝山清次))。〕。
同族の高島行綱高島氏)の娘を妻としていて〔〔一人の女子があったとされる〔〔が、跡を継ぐ男子が無かった〔『尊卑分脈』の付記に「雖為嗣嫡依無男子不継之」とある。〕ため、従兄で姉妹の夫でもある宗氏を経て〔、宗氏と姉妹との間に生まれ、貞宗の養子となっていた甥の高氏が最終的に家督を継承した。
法名は春窓道夢〔。墓所は滋賀県米原市徳源院
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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