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佐々木 隆之(ささき たかゆき、1946年8月24日 - )は日本の実業家。JR西日本取締役会長。 ==人物== 広島県広島市出身。広島大学教育学部附属高等学校を経て、1970年に一橋大学経済学部を卒業し、日本国有鉄道に入社。当時、一橋大学から国鉄に入社する学生は毎年1、2名と少なかったが、情報学ゼミの教授の勧めで入社した。 当初は機関士として、寝台特急「みずほ」の運転に当たったこともある。その後企画・総務畑に転じ、大阪鉄道管理局総務部長等を務めた。 1987年国鉄分割民営化により新たに発足したJR西日本に移る。同社では主に営業部門、経営企画部門、人事部門、財務部門等を幅広く経験し〔JR西の次期社長に佐々木氏 : 動画 - 47NEWS (よんななニュース)〕、人事部長、取締役財務部長、取締役営業部長等を務めたのち、2002年にキヨスクやコンビニエンスストアの運営等を行う完全子会社のジェイアール西日本デイリーサービスネット社長に転出した。このとき、親会社に意見を伝えても、門前払いにされる経験をし、本社と現場の枠を取り払う必要性を感じるようになる〔毎日新聞2009年7月11日大阪朝刊〕。 その後2005年にJR福知山線脱線事故が発生し、翌2006年に山崎正夫が社長に就任した。山崎は、豪腕のワンマン経営者として知られた井手正敬元社長の利益追求偏重の経営姿勢が事故原因の一端と指摘されていたことを受け、井手の影響力排除を進め、次期社長有力候補と目されていた井手派の副社長を子会社へ転出させる一方、山崎が鉄道本部長を務めていた時期に副本部長として山崎を補佐していた〔朝日新聞2009年7月10日〕佐々木を「外に出た中で際だって優秀な人材」としてJR西日本の本社の副社長として呼び戻した〔【JR西社長起訴】連載・捜査の「力」(上)「すべてが後出しジャンケン」MSN産経ニュース2009.7.8、NNN・NEWS242009年7月10日15:04、【人】 JR西日本社長に内定した佐々木隆之(ささき・たかゆき)さん(62)」MSN産経ニュース2009.7.11〕。 JR西日本復帰後は、副社長や新設ポストである副会長に就き、山崎社長を補佐し、グループ全体の経営改善等を担当していた〔読売新聞2009年7月10日〕。 ところが2009年7月8日に山崎正夫社長がJR福知山線脱線事故に絡み業務上過失致死傷罪の罪で、神戸地方検察庁により在宅起訴された。これを受けて山崎社長は、佐々木と西川直輝副社長が同席した同日午後6時過ぎの記者会見で引責辞任を表明〔神戸新聞2009年7月10日〕。その後山崎社長から「難局に全社をまとめるには君がふさわしい」と、後任を打診され、「会社には育ててもらった恩義がある。逃げるわけにはいかない」〔【人】 JR西日本社長に内定した佐々木隆之(ささき・たかゆき)さん(62)」MSN産経ニュース2009.7.11〕と引き受けることを決意した。一時後任社長人事について毎日新聞が佐々木が有力視されていると報じる〔毎日新聞 07月09日02時33分〕一方、読売新聞は大幅な若返りで経営改革の姿勢を印象づけるため経営の中枢部門である総合企画本部長を務めた別の副社長を後任とする方向で調整に入ったと報じる〔「JR西日本の社長後任、真鍋副社長を軸に」月9日3時13分配信 YOMIURI ONLINE(読売新聞〕など情報が錯綜したが、10日午前に開催された臨時取締役会で、佐々木を山崎社長の後任社長とする決定がなされた〔共同通信2009年7月10日〕。取締役会後、大阪市にあるJR西日本本社ビルで午前10時半から開かれた記者会見に、山崎社長とともに臨んだ佐々木は、山崎社長が掲げていた「三本柱」〔連載・特集|尼崎JR脱線事故|異常速度は「想定外」 山崎社長、辞任を否定、神戸新聞2008/09/09〕である被害者対応、安全性向上、企業風土変革への取り組みを引き継ぎ、信頼回復に努めていきたいとの抱負を述べた〔読売新聞2009年7月10日〕。 座右の銘は松下幸之助の「経営者は事にあたり、まず冷静に判断し行動しなければならない。そしてそのうえでそっと情を添えることが肝要である。」という言葉〔【人】 JR西日本社長に内定した佐々木隆之(ささき・たかゆき)さん(62)」MSN産経ニュース2009.7.11〕。趣味は奈良の町歩き〔毎日新聞2009年8月29日朝刊2面〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木隆之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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