|
佐久本 昌広(さくもと まさひろ、1974年7月15日〔週刊ベースボール2012年4月2日号 P61〕 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(投手)〔。 == 来歴・人物 == 中学時代には沖縄選抜として九州大会で優勝〔週刊ベースボール2012年4月2日号 P60〕。福岡県の久留米工大付属高に野球留学。大和銀行では日本生命の補強選手として都市対抗野球大会に出場。 1995年のドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団。1年目から中継ぎを中心に一軍で活躍。1997年にはルーキーストッパーの岡本克道に繋ぐセットアッパーとして、8勝3セーブを挙げ。1998年には中盤以降から最後まで先発ローテーションに加わり6勝を記録。1999年には工藤公康に次ぐ左投手の先発2番手として期待され、開幕からローテーションに入ったものの不調で二軍落ち、終盤に復調し日本シリーズ第5戦に先発登板した。同年オフには、移籍した工藤の自主トレにも参加して鍛え直すなど、ポスト工藤の一番手として期待された。 2000年、開幕ローテーションに入るものの、3試合の登板でことごとく打ち込まれ、以降一軍での先発登板無し。この年チームは優勝するがその輪には入れず、日本シリーズの左投手攻略の為の打撃投手要員で一軍に呼ばれるという屈辱も味わった。 2003年、松田匡司との交換トレードで阪神タイガースへ移籍。タフィ・ローズとの相性が良く、攻略法は本人も知っているとのことで期待されたが、制球難が顔を出すなどして、ジェフ・ウィリアムスや吉野誠ら分厚い阪神中継ぎ左腕投手陣を乗り越えることはできず、登板機会は与えられなかった。 速球派とも軟投派とも言えず、これといったセールスポイントが無いことも問題となっており、2004年キャンプではそれまでのオーバースローからサイドスローにフォームを変更。試行錯誤が続いたものの、一軍登板で全く結果が出せず、2005年10月5日に戦力外通告を受ける。 2005年オフに受けた合同トライアウトを経て、2006年より、当時左腕投手不足が深刻だった横浜に入団〔。戦力外通告から横浜入団までの経緯は、2005年12月28日にTBSで放送された『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』の中で紹介された。 2006年は21試合に登板したものの今ひとつ安定せず、年間を通じて一軍に定着することができなかった。 2007年は再び工藤と同僚となったが、左腕の中継投手が豊富になったチーム事情から一軍に昇格できず、ファーム(湘南シーレックス)での登板でも失点を重ねるなど結果を残すことができなかった。そして10月に再び戦力外通告を受け、現役引退を表明。翌年から横浜の打撃投手を務め、2011年オフに退団した〔。退団後は地元沖縄に帰り、会社員として株式会社沖縄ダイケンに勤務していた〔他、2012年・2013年にはRBCiラジオ エキサイトナイターの解説を務めた(何れも沖縄セルラースタジアム那覇での試合に限る)。2014年11月8日に工藤が監督を務める福岡ソフトバンクホークスの三軍投手コーチに就任することが発表された。古巣に13年ぶりの復帰となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐久本昌広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|