|
佐久間 正英(さくま まさひで、1952年2月29日 - 2014年1月16日)は、日本のミュージシャン、音楽プロデューサーである。 ==略歴== 母親は広島の出身で、戦前広島市舟入にあった少女歌劇に在籍〔佐久間正英のHP November 30, 2009 四人囃子メンバー 佐久間正英 インタビュー (文中の「波田舞踊団」は「羽田別荘少女歌劇団」のこと〈料亭 羽田別荘 歴史 〉〈広島・少女歌劇 : とっておき旅 : 企画・連載 : 関西発 : YOMIURI ONLINE 〉、 倉橋滋樹・辻則彦『少女歌劇の光芒 ひとときの夢の跡』青弓社、2005年)。〕。海軍士官だった父親と終戦と共に逃げるように東京に出て来たという〔佐久間正英のHP December 7, 2009 〕。三味線の師匠だった母から音楽的な影響を受ける〔『そして音楽が残った~プロデューサー・佐久間正英“音と言葉”~』NHK総合、4月11日放送。 第06回 佐久間 正英 氏 | Musicman-NET 〕。東京都立杉並高等学校を経て和光大学人文学部人間関係学科卒業。 「ミスタッチ」というバンドの在籍を経て、四人囃子に加入しベースを担当した後、作曲家・編曲家・セッションミュージシャンとして活動。1978年にプラスチックスに参加(「Ma-CHANG」名義)し、1981年に脱退。この間にP-MODELのプロデュースに携わり、本人は「初めてのプロデュース業」と振り返っている〔“30th anniv. ” - Masahide Sakuma、2014年1月21日閲覧。〕。1984年、自身の活動拠点としてブイ・エフ・ブイスタジオを設立。四人囃子からプラスチックスへの移行期に香港映画『ドランクモンキー 酔拳』の日本向け主題歌「拳法混乱〜カンフージョン」を作曲したのを機に、1980年代からは映画音楽も手がけている。 1999年、ケイト・ピアソン(B-52's)、YUKI(JUDY AND MARY)らと共にNiNaを結成し、シングル「ハッピー・トゥモロー」をリリース。2001年には佐久間が中心となってビビアン・スー、土屋昌巳、ミック・カーン、屋敷豪太とThe d.e.pを結成し、同年5月9日アルバム『地球的病気』を発売。2003年、早川義夫とCes Chiensを結成。佐久間はかつて早川がリーダーを務めていたジャックスに強い衝撃を受け、音楽の道を目指すきっかけになった。 2008年より、佐久間本人が長年抱いて来た“理想のバンド”構想を実現すべく、若菜拓馬、星山哲也、砂山淳一、佐久間音哉らとunsuspected monogramとして活動を開始する。このバンドではギタリストとして活動しており、不定期ながら、ライブを行っていた。2010年2月19日より、"Goodnight_to_followers"、通称"おやすみ音楽"として毎晩、曲を作成しネット上に無料でアップロードしていた。"いつまで続けるかはわからない。"としながらも500夜、700夜、1001夜達成の節目節目にライブを開いている。連続アップロードは2013年3月5日の1111夜で一旦終了し、その後は「気が向いた時」に作りたいとしていたが、結果的には2013年3月15日の1112夜目が最後となった。 2013年8月9日、自身の公式サイトにて末期のスキルス胃がんであることを公表〔佐久間正英「goodbye world」 〕。2014年1月16日午前2時27分死去、〔音楽プロデューサー佐久間正英氏死去…昨夏に末期がん公表 (2014年1月20日)、スポニチアネックス、2014年1月20日閲覧。〕。同年1月20日、息子の音哉により死去が報告される〔佐久間音哉、TwitLonger 、2014年1月20日閲覧。〕。アルバムではウラニーノのアルバムプロデュースが最後となった〔佐久間正英「goodbye world」 、2014年1月20日閲覧。〕。2014年3月5日に遺作「Last Days」を含むコンピレーションアルバム『SAKUMA DROPS』が発売〔音楽プロデューサー 佐久間正英、ヒット曲満載の作品集「SAKUMA DROPS」3/5発売 、musicman-net、2014年1月20日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐久間正英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|