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佐久間 盛政(さくま もりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。官途および通称は玄蕃允。勇猛さから鬼玄蕃と称された。 佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。 == 生涯 == === 織田家臣時代 === 天文23年(1554年)、 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた〔岡田正人『織田信長総合事典』P237〕。 「身長六尺」(約182センチメートル)とあり〔『佐久間軍記』〕、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。 永禄11年(1568年)の観音寺城の戦い(対六角承禎)で初陣。元亀元年(1570年)の越前手筒山城攻め(対朝倉義景)、野洲河原の戦い(対六角承禎)、天正元年(1573年)の槇島城の戦い(対足利義昭)などに参加、戦功を挙げた。 天正3年(1575年)、叔父・柴田勝家が越前一国を与えられた際にその与力に配され、柴田軍の先鋒を務めた〔。以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った。また、この頃に「鬼玄蕃」という異名がつけられた。 天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が南下してきた際には信長の命令で加賀に派遣され、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築いて在番した〔〔『信長公記』天正5年10月の条〕。 天正8年(1580年)11月、加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代の城主となり、加賀半国の支配権を与えられた〔。 天正9年(1581年)、勝家が安土城に赴いた留守を狙って上杉景勝らが加賀に侵入し、白山城(舟岡城)を攻め落とした。この時、救援に向かった盛政が到着したときには既に落城していたが、盛政はそのまま上杉軍に挑みかかり、これを破った。さらに同年、能登国の地侍が景勝の扇動により蜂起して荒山城に籠城した際、前田利家の要請に応じて救援し、城の後詰に来ていた上杉軍を討った。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には柴田勝家に従って上杉方の越中松倉城を攻撃中であり〔、信長の没後は柴田勝家に従った。勝家が軍を率いて越前に撤退し、明智光秀討伐のため上洛しようとした際には情勢を説いて諫止したとされているが〔『村井頼重覚書』〕、この説は疑わしいとされている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐久間盛政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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